ドライの躍進を支えた「CC戦略」
72年4月に入社し、研修後に博多工場倉庫課へ配属された。営業が希望で、同期の大半も営業職になったのに、よほど入社試験の成績が悪かったのか、と思う。まだ全自動の設備もなく、空瓶が戻ってくると瓶と箱を洗い、入れ直す。そういう現場作業の監督役だったが、新人だけに自ら力仕事をやらざるを得ない。
博多工場に5年いて、労組支部の役員も経験した。すると、本部からお呼びがかかり、77年9月に専従役員となる。今度は6年間。本部へいくと、委員長に「いずれは書記長をしてもらうが、1年目から焦ることはない。まずは、勉強をしてくれ」と言われ、組合ができてから約50年分の運動方針や活動報告などを読むように、指示された。
そのすべてに、目を通す。次は、議案を書く役。できると、委員長は筆など入れず、パッとみて「この文章の哲学は何だ」と聞き、「その哲学の柱は?」と問う。柱がみえてくると「これを具体的に落とす行動論は?」となり、最後に「組合員を巻き込むための仕掛けは?」だ。常にそうやって、論理的な思考と人の心をつかむ大切さを教え込まれた。
書記長になって職場を回ると、委員長の最初の指示の、重みを痛感する。普通なら、ベテランの支部役員は若造の言うことなど聞かない。でも、約50年の歴史に目を通してあったから、「支部長、昔の委員長時代にはこうでしたよね」と話しかけると、「何でお前、それがわかっているのだ」と驚き、いろいろと教えてくれた。議案書も、現場の先輩たちも、一つの「天下の目」であり、「天下の耳」を学ぶこともできた。
復職し、CIを手がけた後、新設の広報企画課の課長になる。以来、広報部長を務め上げるまで「広報ひと筋」が続き、コーポレート・コミュニケーション(CC)の戦略を重ねていく。CI導入で、企業イメージは変わった。次は、いろいろと変化した事実を世にみせたい。