3月にアサヒビール新社長に就任した松山一雄さんは、鹿島建設、P&Gジャパンなどで勤務し、マーケティング畑を歩んできた。サトーホールディングス社長を務めた後は、58歳でアサヒビールに入社した。その異色のキャリアについて、ジャーナリストの永井隆さんが聞いた――。
アサヒビール新社長に就任した松山一雄氏
撮影=門間新弥
アサヒビール新社長に就任した松山一雄氏

58歳で就活、4年半で社長に

アサヒビール社長に就任した松山一雄氏(62歳)は、鹿島建設、サトーホールディングス(HD)、P&Gジャパンなどと転職を重ね、58歳で就活してアサヒに入社。その4年半後に社長になる。31歳の時、米大学院に自費で留学しMBA(経営学修士号)を取得しプロのマーケッターとしても活躍した。特異な経歴を持つ松山新社長の生き様に迫る。(聞き手はジャーナリスト・永井隆)

――松山さんはよく、「ワクワクする」と会見などで話されます。いつ頃から、ワクワクされたのでしょうか。

【松山】幼い頃から、好奇心旺盛でわんぱく、やんちゃでした。ワクワクし、興味があると他のことを忘れてしまい没頭することもあり、遊んでいた場所にランドセルを置いて家に帰宅することもあった。ワクワクする性格は、今も変わらず「三つ子の魂百まで」と感じています。

――お生まれは東京なんですね。

【松山】台東区の入谷で生まれました。でも、3歳の時に草加に引っ越して、吉川、春日部と、ずっと埼玉を北上する形で育ちました。父親は家具会社に勤めていたのですが、私が高校生の時にいきなり脱サラをして、自分で家具屋を始める。英語もできないのに、世界を渡り歩き、海外からも商品を仕入れて販売してましたね。ただし、「継ぐな」と言われた。構造不況業種であり、息子に苦労をかけたくなかったからでしょう。

強豪からトライを奪った弱小ラグビー部時代

――高校は、どちらでしたか。

【松山】春日部高校です。県立なのに男子校でした〔埼玉県では戦前にできた普通科高校(旧制中学)は、県立浦和、熊谷などいまでも男子校。同じく、浦和一女、春日部女子などいまでも女子校〕。数学や物理が得意で、理系に進む考えでいました。

ところが、少しだけ色覚異常でして、理工系大学の試験は受けられるのですけど、高2の時の担任から「将来を考えるなら、文系にしたほうがいい」と強く薦められたのです。そこで、英語も得意だったので英文科に志望を変えました。英語力を生かし将来は海外に出たい、と思うようになったのは、この頃からです。

――部活は何かやっていましたか。

【松山】できて間もないラグビー部に所属し、ポジションは(FW1列の)プロップでした。伝統もなく、大会に出ては負けてばかりのチームだった。

ところがです。学校の近くに書店があり、店主は(福岡県立)修猷館高校ラグビー部出身の方(当時、修猷館は福岡高校と並び、文武両道で知られる福岡県のラグビー名門校)。われわれの下手くそな練習を見ているうち、「なってない」とばかりに指導してくれるようになる。

すると、めきめきと強くなって、私が高3時の大会では、県の準々決勝でしたか、上のほうまで進む。最後は、強豪・熊谷工業に55対10で負けますが、全国屈指のチームから2トライを奪ったのです(当時トライは4点)。実績もなかった普通の進学校がですよ。