安定よりも「心がワクワクする」ほうへ行きたい

――なのになぜ、決断されたのですか。

【松山】ワクワクが止まらなくなったから、です。心がワクワクする方向に、私は飛びついちゃうんですよ。いつも。小さいけれど高度な技術を持つ会社が社運を賭けて、初めて海外進出して、工場を立ち上げていくという。英語ができて、現地に通じた人材が本当に必要とされていた。円高による海外進出、さらにバーコードプリンターへ事業転換しようとする創業者のビジョンに感銘を受けてもいた。

――この4年後の91年秋、ノースウエスタン大学ケロッグ経営大学院に留学しMBA(経営学修士号)を取得します。留学費用を含めて経緯は?

【松山】サトーでは、現地工場の立ち上げから工場が安定稼働するまでの4年間、勤めます。マレーシアには、鹿島の2年を合わせ都合6年いました。この間、日本はバブルで円高が続く。円建てで給料も駐在手当も受けていたため、自動的にお金が貯まったのです。

すると、次のワクワクが始まります。マーケティングは学生時代に全米の学生とディベートした時から、実は勉強したいと思っていた分野。なので、ケロッグを選んだのですが、約1500万円の留学費用はすべて自費でまかなえました。

松山一雄氏
撮影=門間新弥

「クビになるのでは」マーケッターとしての大失敗

――安定したサラリーマンの生活を捨てるわけで、せっかく貯まったお金も吐き出してしまう。奥さまは反対しなかったのですか?

【松山】反対された記憶はありません。85年に結婚し、長男が生まれたのがサトーに転職した87年。学校があるイリノイ州には家族で赴きましたよ。私は文学部出身なので、経営学をゼロから学んだ。すごく新鮮でした。

――93年にはP&Gファー・イースト・インク(現P&Gジャパン)に入社し、マーケッターとして歩み始める。でも失敗があったとか。

【松山】P&Gへ入社し、最初に担当したプロジェクトがリンスインシャンプー「リジョイ」のフルリニューアル。処方、パッケージ、CMを含めたコミュニケーション、販促など一切を担った。それぞれの事前調査では既存品を上回る良好な結果が出ていたのに、ビジネスとして不本意な結果に終わってしまいました。

結論から言うと、リジョイが大好きで使っていたコアなロイヤルユーザーの気持ちに寄り添うことができなかったのです。調査では必ずしも本音で語ってくれないこともあり、調査結果を鵜呑みにすると痛い目にあうことを知りました。常にお客さまを真ん中に置いて、お客さまがブランドに求める価値の本質をありのままに受け止めなければならないと、痛感した。「リジョイ」の失敗でP&Gをクビになるのではと、不安でビクビクしてました。