青学時代は「女子校へと突然転校したよう」

【松山】私にとって大きな自信になりましたが、いまでも自慢です。熊工はそのまま花園に出場し、ベスト8まで勝ち進みました(第58回全国高校ラグビーフットボール大会の準々決勝で大分舞鶴に惜敗する。その後、熊工は第70回大会で全国優勝を果たす)。楕円だえん球の争奪に明け暮れた青春でした。

――大学は青山学院文学部英米文学科に進まれる。

【松山】一クラスは45人で、男子は5人しかいなかった。男子校から女子校へと、突然転校したようでした。

――羨ましい。もてたでしょう。

【松山】とんでもない! 逆です。男子は存在そのものを無視されました。この時、マイノリティーを経験したので、社会人になりダイバーシティー(多様性)について理解できるようになった。キャンパスでは、学生だったサザンオールスターズの桑田佳祐さんを何度か見かけました。颯爽と歩いていてカッコよかった。

クラスでは無視されましたが、ESS(英語研究会)に4年間所属し最後は部長も務めた。1年次からディベートのチームにいて、大学生の大会で何度か優勝する。このため3年から4年になる春休みの2カ月間、公費で渡米しました。19州を廻り25の大学とディベートをしました。飛行機に乗ったのは、この時が初めてでしたね。

新卒から定年まで勤め上げる覚悟だったが…

――卒業した83年、鹿島建設に入ります。その4年後にサトー(現サトーHD)に転職されます。

【松山】鹿島では85年にマレーシアの駐在員となり、高校時代から希望していた海外の仕事に就きます。その時、サトーがマレーシアへの工場建設を計画していて、建設を受注したのが鹿島であり、駐在員の私とサトーとの接点が生まれた。85年のプラザ合意による円高が急激に進んでいて、サトーにとって初の海外工場だったのです。

サトーもマレーシアで仕事のできる人を探していて、関係は近づいていった。最後は、ハンドラベラーを開発された創業者の佐藤陽さんと、岩手県の大沢温泉の温泉宿で4時間膝詰めで面接して転職を決めました(大沢温泉近くにサトーの主力工場がある)。

――反対はなかったのですか。そもそも、終身雇用を最初から否定していたのですか。

【松山】上司、先輩、同僚と全員が反対しました。この後も、何度も転職しますが、鹿島をやめる時の反対が一番大きかった。私は26歳。鹿島は超大手で、サトーはこの時はまだ、上場もしていなかった。「考え直せ」とみんなから言われました。新卒で入社した時は、定年まで鹿島に勤め上げる覚悟だったのですが。