太平洋戦争では戦局が悪化する中、旧日本軍の兵士たちが次々と「玉砕」していった。なぜこんな悲劇が起きたのか。ノンフィクション作家・保阪正康さんの著書『昭和陸軍の研究 上』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。(第1回/全4回)
1943年、東條英機に対し、陸軍将校・陸軍軍属高等官一同が「敬礼」を行う姿
1943年、東條英機に対し、陸軍将校・陸軍軍属高等官一同が「敬礼」を行う姿(写真=Reader's Digest, TT News Agency/PD-old missing SDC copyright status/Wikimedia Commons

優等生だが、実戦経験は乏しかった

太平洋戦争時に陸軍の指導部に列した軍人は、だいたいが明治10年代中期から20年代後期にかけての生まれである。

彼らにはいくつかの共通点があった。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、そして陸軍大学校(陸大)と、陸軍の教育機関を優秀な成績で卒業している。つまり成績至上主義のこのような機関で相応の成績をあげていた。さらに彼らには、実戦体験が希薄であった。

この世代は、明治37年、38年(1904、05年)の日露戦争時には陸軍士官学校の生徒であったり、あるいはまだ陸軍幼年学校の生徒にすぎなかった。中隊長として参戦した者はあったが、それは実戦を指揮するという立場ではなかった。

長州閥による支配体制が終焉

さらにこの世代は、日本陸軍の建軍以来の軍人養成システム、精神的規範、戦略・戦術指導が生みだした軍人という側面をもっていた。つまり近代日本の富国強兵策の忠実な申し子といえた。独創的な識見とか歴史的先見性をもつというより、与えられた枠内で考え、行動するという域をでなかったのである。

ただしこれは重要なことであるが、日本陸軍内部を支配していた長州閥が彼らの力によって打破されたという役割を果たしている。

元勲の山県有朋が大正11年(1922年)に病死するまで、陸軍内部は長州出身者が主導権をもっていた。陸大の試験答案に「山口県出身者である」と書けば、何点かが加点されたという噂まで飛んでいたし、山県の後押しだけで将官になり、軍内では「長州の三奸」と評されていた軍人も大正時代中期には存在していたのである。