パトロンとの縁が運命を変える

ただし、狂歌とはもともと詠み捨てられるもので、江戸狂歌にしても、当初は狂歌の会の場で読み捨てられるのが原則だった。

だが、狂歌がブームになって狂歌人口が拡大するなかで、状況は次第に変わっていく。天明3年(1783)に唐衣橘洲編の『狂歌若葉集』と四方赤良編の『万載狂歌集』が相次いで出版された。とくに平安末期の勅撰和歌集『千載和歌集』に倣って、古今の狂歌を内容別に並べた『万載狂歌集』は話題になり、以後、狂歌本は「売れる」ものとみなされ、多くの版元が続々と出版するようになった。そして、ほとんどの狂歌本に赤良こと南畝が関わっている。

『万載狂歌集』が刊行されたころから、南畝は吉原に通うようになり、たいていは幕府勘定組頭の旗本、土山宗次郎とつるんでいた。狂歌会は吉原で開催されることも多かったが、女郎遊びにものめり込んだという。だが、侘しい家に住む御徒の御家人には、吉原で遊ぶ金など捻出できるはずもなく、費用はたいてい土山宗次郎が負担していたようだ。

ブームにあやかって、蔦重は『狂歌才蔵集』などの狂歌集を企画する一方、狂歌会をお膳立てし、そこで詠まれた狂歌をそのまま書籍化する、という方法も生み出した。イベントを仕かけ、それをまるごとパッケージングし、書籍化するのである。こうすれば流行の最先端を短期間で市場に提供できる。蔦重の面目躍如だが、その際、常に主導的な役割を果たしたのが赤良こと大田南畝だった。

太田南畝肖像画 鳥文斎栄之筆
太田南畝肖像画 鳥文斎栄之筆(写真=渥美国泰『太田南畝・蜀山人のすべて』里文出版/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

幕府の登用試験に首席で合格

だが、天明6年(1786)8月に10代将軍徳川家治が死去し、直後に田沼意次が失脚すると、田沼派に対する粛清の嵐が吹き荒れる。田沼に対ロシアの政策の必要性を説き、蝦夷地の調査などを主導した土山宗次郎も、500両の横領の疑いがかけられ、天明7年(1787)末には斬首されてしまう。

ということは、南畝が宗次郎とつるんで吉原で遊ぶのにかかった金額も、不正で得られた可能性がある。実際、南畝は幕府から目をつけられたとされる。折しも、松平定信が主導して、風紀の乱れを厳しく取り締まった寛政の改革がはじまったこともあり、以後、南畝は幕臣としての職務に立ち返り、執筆は細々と続ける程度になった。

ただ、もともと優秀なのだ。寛政4年(1792)には幕府の登用試験に首席で合格し、寛政8年(1796)に支配勘定に出世している。そして、享和元年(1801)に大坂の銅座に赴任すると、南畝の名声を知る人たちの強い要望を受け、蜀山人の名で、細々とではあるが狂歌を再開している。

死去したのは文政6年(1823)で、数え75歳になっていた。一時はにらまれながらも、うまく立ち回った人生だったといえよう。「今までは/人のことだと/思ふたに/俺が死ぬとは/こいつはたまらん」という、人を食ったようでいて、いい得て妙の時世の歌を遺している。

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