幼少期から神童と目された

史実における大田南畝と蔦重の出会いも、ほぼ「べらぼう」で描かれたとおりである。

南畝は天明元年(1781)、役者評判記のパロディとして、黄表紙(洒落や滑稽を交えた大人向けの絵入り小説)の評判記である『菊寿草』を刊行。そのなかで、蔦重が出版した朋誠堂喜三二の『見徳一炊夢』に最大級の評価(巻頭の極上上吉)をあたえたため、よろこんだ蔦重が南畝の自宅を訪ねたのだ。それが蔦重との初対面だったと、南畝自身が日記に書き遺している。

以後、1歳年下の蔦重と急速に交流を深めていく南畝は、少年時代から才にあふれていたと伝わる。知識欲が旺盛で、記憶力にすぐれ、幼少期から神童と目されていたという。15歳で江戸六歌仙の1人、内山賀邸に入門して和歌を学び、同時に、借金をしながら国学、漢学、漢詩、狂詩などを学んだ。

賀邸の弟子のなかには唐衣橘洲(本名は小島源之助)や朱楽菅江(本名は山崎景基)がいて、ことに唐衣橘洲の影響を受けて狂歌会に参加するようになったという。

明和4年(1767)、数え19歳にして、すでに最初の狂詩集『寝惚先生文集』を刊行し、大きな評判を勝ちとっている。狂歌が和歌のパロディなのに対し、狂詩は漢詩のパロディである。安永4年(1775)には、内藤新宿の遊里を描いた『甲駅新話』を刊行し、このころから洒落本(遊廓などを舞台にした小説や戯作)の作者としても活躍するようになった。

書道をしている男性の手元
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大田南畝グループの勢い

南畝の狂歌との出会いは明和6年(1769)、唐衣橘洲からごろも きっしゅうが開催した狂歌会に参加したことだったようだ。このころから四方赤良の狂名を使いはじめている。

狂歌とは、前出の「あなうなぎ」ではじまる歌が典型だが、五七五七七という和歌の形式のなかで、上品な言葉(雅語)はあまり使わない代わりに、掛詞や縁語などはむしろ過剰なほどもちいて、卑俗な内容、滑稽な内容を詠むものだった。狂歌とはこのように、日常とは別人格として戯れるものだったので、狂名がもちいられたのだ。

いわゆる「江戸狂歌」は、こうして唐衣橘洲をはじめ、内山賀邸うちやま がていのもとで和歌を学ぶ武士たちのあいだで起こった。その後、狂歌を詠む人たちは「連」というグループを組織し、自身を中心とした狂歌会を開催するようになった。四方赤良こと南畝のグループは「四方連」と呼ばれた。

ちなみに、四方赤良、唐衣橘洲、朱楽菅江あけら かんこうの3人は「天明狂歌三大家」と呼ばれた。なかでも赤良は「高き名の/ひびきは四方に/わき出て/赤良赤良と/子供まで知る」と、狂歌に詠まれたほどだった。子供も知るくらい、赤良の狂歌は評判だったというのである。