なぜ死を怖いと思わなくなったのか

子どもの頃は、死ぬのが怖くてしかたがなかった。僕は幼い頃に横尾家に貰われてきた養子で、養父母は僕が20歳になる頃には生きていられるかわからない年齢でした。両親が死んだら僕は一人ぼっちになってしまう。そのことと、毎晩のように飛来してくるB29がおそろしくて、夜になると布団の中で震えていました。

ところが、実際に両親が亡くなってしまうと、僕はものすごく解放された気持ちになりました。僕がおそれていたのは両親の死であって、死そのものではなかったのです。そうして自分の死だけが残って、僕は死と真正面から向き合えるようになったのです。

横尾忠則
横尾忠則(よこお・ただのり)
1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ世界各国の美術館で多数の個展を開催し国際的に活躍。高松宮殿下記念世界文化賞受賞。今春、世田谷美術館で全新作の油彩画の個展を開催する(4月26日~6月22日)。

死について徹底的に学び、考えました。そこで気がついたのは「死がおそろしいのは、此岸しがんにいる自分と彼岸ひがんにある死の間に、距離があるからではなかろうか」ということです。ならば自分があちら側に行って、死と一体になればいい。そう思って一時期、死を中心にすえた生活を送っていました。

自分を彼岸の人間だと思い込み、こちら側の世界をあちら側の世界から眺めるようになりました。そうすると現世の出来事が馬鹿馬鹿しく見えて、執着や競争心が薄れていくのを感じました。それと同時に、死への恐怖が消えました。だって僕自身が、恐怖と同化してしまったのだから。

現世に生きている人たちは、皆さんこちら側が実相の世界だと思っているでしょう。ところが僕は反対に、あちら側の世界が実相で、こちら側の世界は虚構だと思います。人間は死んだら肉体を脱ぎ捨てて、霊的存在となってあちら側の世界へ行くのです。肉体がないから痛みもなく、衰えもしないから時間の概念もありません。そう考えると、死は解放ともいえるでしょう。

だから、親しくしていた人が亡くなっても、僕は悲しいとは思いません。こちら側の世界の「死」は、あちら側の世界から見れば「誕生」です。魂が肉体をまとってこちら側の世界に生まれ、日々を生きることこそが、むしろ試練のようなもの。死んであちら側の世界へ行った人たちは「大変でしたね。無事に戻ってこられてよかった」と祝福されているに違いない。

僕は今年、6月27日で89歳になります。毎朝、新聞は最初に訃報欄を開きます。そこに載っている人たちの年齢を見れば、自分が死の範疇に入っているのは、いやがおうでも理解します。こちら側の世界で親しくしていた人は、もうほとんどあちら側の世界へ行ってしまった。一昨日も、同級生が亡くなったという知らせを受け取ったけれど、「あ、そう」としか思いませんでした。

僕だって、間もなくあちら側へ行くわけですから、悲しいだとか寂しいだとかは思わないのです。ただ、先に旅立った人たちと再会できるかは、わかりません。僕と同じ霊的レベルにいる人たちとは会えるでしょうが、そうでない人とは頑張っても会えない。

年を取れば、老いて体のあちこちが衰えてくるのもあたりまえ。耳は難聴で聞こえづらいし、目は老眼で見えにくいし、腕は腱鞘炎でまっすぐに線が引けなくなりました。老化現象で、ありとあらゆる部位がハンディキャップを抱えているけれど、これが「老人の自然体」です。

体がヨタヨタになったら、ヨタヨタのまま絵を描き、ヨタヨタのまま生きていけばいい。年を取ったらいろいろできなくなるのが普通、その先に死を迎えるのだって自然なことだと思います。