幕末から明治へ、村の名主から追放された青年
※〈〉は編集部による補足
〈天保12年(1841年)、栃木県の小中村(現在は佐野市)で生まれた田中正造は、祖父と父を継いで18歳で村の名主となりました。江戸から明治に変わる激動の時代、田中正造は仲間たちと共に、領主である六角家の改革運動に取り組みますが、牢に入れられ、領地から追放されてしまいます。
一度は破産同然となったものの、東京の友だちの家に居候した田中正造は、縁もゆかりもない江刺県(現在は岩手県)でようやく職を見つけました〉
刀を持って駆けつけた夜、始まった冤罪の悲劇
1870年のはじめ、29歳の田中正造は、月給6円の下級官吏として江刺県に出むいた。役所の本部は遠野町にあり、その支所が花輪町にあった。正造は支所のある花輪町に住んで、県内をまわって報告書を書いた。前年秋の凶作のために、鹿角郡と二戸郡とでは農民が飢えに苦しんでいた。正造は下級官吏の身分ながら、自分の責任で貯蔵米500俵を開放して救助にあたった。
1870年の日記を見ると、県下の貧しい家の一軒一軒について、こまかい覚え書きをつくっている。
あずまじのわがふるさとのおもい出にける
という和歌が書きつけてある。
窮民救助のための努力、訴訟をきいて取り調べをしたことなどが、こまごまと日記に書いてある。
そのうちに冬になり、寒さのためにリュウマチスが出たので、小豆沢という山奥の温泉に行って年末の休みをとった。正月になって花輪町のすまいに帰ると、そのあくる晩、正造の上役、木村新八郎が何者かに斬られた。
知らせを聞いて、正造は刀をもって上役の家にかけつけた。そのころは、役人はまだ刀を差していたものだったから、あたりまえのことだったが、もしこの時、丸腰でかけつけたなら、無用の疑いは受けなかったかもしれない。
田中のかけつけた時には、木村はまだ生きていたが、やがて息絶えた。そして、4カ月たってから、田中正造が木村新八郎殺しの下手人としてとらえられた。理由は、正造の刀のやいばに人を斬ったくもりがあるということだった。

