4月13日、大阪市舞洲で「大阪・関西万博」が開幕する。大阪で万博が開かれるのは55年ぶりとなる。ライターの栗下直也さんは「なぜ前回の万博は大成功に終わったのか。それは『太陽の塔』の誕生過程を知ることでよくわかる」という――。(前編/全2回)
太陽の塔
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「太陽の塔」をつくったのは岡本太郎だけではない

眩いばかりの経済成長を遂げていた1970年代の日本。その象徴として語り継がれる大阪万博で、ひときわ異彩を放ったのが「太陽の塔」だ。芸術家の岡本太郎を中心に、建築家・丹下健三、SF作家・小松左京など、錚々たる顔ぶれがその誕生には関わっていた。

開幕が迫る2025年大阪・関西万博を前に、前回の大阪万博(日本万国博覧会)で生まれた太陽の塔がどのようにして誕生したのか。そしていかにして現在まで残ったのか。その過程を知ることで、今回の万博への評価は大きく変わるだろう。前編では、万博開幕までの舞台裏を探る。

太陽の塔の物語は万博の計画段階から始まっていた。1964年7月、京都・祇園の旅館に後世に名を残す知識人が集まった。SF作家の小松左京、文化人類学者の梅棹忠夫、社会学者の加藤秀俊……。彼らは「万国博を考える会」を結成し、万博のあり方について議論を重ねた。

メンバーたちは「貝食う会」と呼ばれる親睦団体の関係者が多かった。彼らは伊勢志摩のホテルなどに集まり、採れたてのアワビやサザエを食べながら、語り合う関係だったが、東京オリンピック後の日本社会を見据えて、次なる国家的イベントの可能性を探り始めていた。そこに岡本太郎や司馬遼太郎も加わり、闊達かったつな議論が交わされた。