※本稿は、車浮代『仕事の壁を突破する 蔦屋重三郎 50のメッセージ』(飛鳥新社)の一部を再編集したものです。
相手の無礼さではなく、能力に目を向けてみる
相容れない人というのはどこにでもいるものです。
言い方がきつい、態度が悪い、人を小馬鹿にしている……そんな人たちの、儀礼を欠いた言動に腹を立ててしまうのも致し方ないことですし、接して不愉快になる相手とは、潔く距離をとるのがベターでしょう。
けれど、もし余力があるのなら、その人の表層的な部分ではなく、本質的な部分を見つめるようにしてみると、得られるものがあるかもしれません。
蔦重はとにかく幅広いジャンルの本をプロデュースしていましたから、それと比例するかのように、多種多様な人たちとの付き合いが発生していました。
本や浮世絵づくりで付き合うべくは、絵師だけではありません。ディレクターとして、彫師や摺師(版木を用いて色を和紙にすりこむ職人)、製本屋など、各分野のプロフェッショナルたちと相対し、取り仕切らなければならないのです。
江戸っ子というのは気が短く口も悪い。粋だが、見栄っ張りで意地っ張り。人情家で涙もろいが、情熱溢れるあまり、喧嘩もいとわない。さらにそこに、気難しい「職人気質」も加わるとなると……なんだか、手に負える気がしないでしょう。
蔦重が関わった作家の中で、現代において最も有名と言えるのは、葛飾北斎ではないでしょうか。北斎が活躍したのは、蔦重の後継者、二代目蔦屋の頃でしたが、蔦重の「仕込み」はすでに始まっていました。蔦重と出会った頃の北斎は、勝川派の門下として、「勝川春朗」という名で筆を執っていました。
勝川派のトップ、春章は、北斎が入門してわずか一年でその才能を認めます。そして、春章の「春」から一字を、さらに春章の別名である「旭朗井」からも一字を与えて「春朗」と名付けるほど、北斎に入れ込むようになりました。
しかしながら、決して人付き合いに秀でてはいなかった北斎の人柄が、足を引っ張ることとなります。頭抜けた実力で兄弟子たちから妬まれたうえ、平然と彼らにも食ってかかる春朗は、次第に孤立していきました。そして、目をかけてくれた春章が亡くなった後は勝川派に寄り付かなくなり、描きたい絵も描けない状況に追い込まれていったのです。
この頃から蔦屋に出入りし始めた春朗を、救い上げたのが蔦重でした。もちろん、蔦重の前でも春朗の生意気な態度は変わりません。けれど蔦重は、彼の上辺ではなく、その奥の才能を見つめていました。
「態度は悪いが画才はお墨付き」。これは蔦重が春朗に抱いた印象です。蔦重にとっては、一に才能、二に才能。悪態をつかれようがなんだろうが、自分で目利きしたその才能を信じ、もっと花開かせるためにはどうすべきなのかということだけに、心を砕いていたのです。
気に入らないと感じる人がいるのなら、「その人の人間性ではなく、能力と付き合う」という意識で向き合ってみてはいかがでしょうか。態度は感心できたものではないけれど、このスキルは傑出しているな、といった部分を見出せるかもしれません。そんな意識で生きられる人は、苦手な人ですら、自分を高めてくれる存在へと、巧みに昇華させることができるのです。