※本稿は、箱石シツイ『108歳の現役理容師おばあちゃん ごきげん暮らしの知恵袋』(宝島社)の一部を再編集したものです。
終戦から8年後に届いた1通の郵便
終戦を迎えても夫は帰ってきませんでした。今日か明日かと待ち続け、夜など、わたしたちが暮らす隠居の横の細道を通る足音がすると「はっ」となり、足音がどちらに向かうのか、息を詰め、耳を澄ましていたものです。
近所や隣町では、どこぞの誰それが帰還したとか噂になっていました。それを聞くと、「次はうちのお父ちゃんかな」なんて。娘と息子とね、お父ちゃんが帰ってきたら「何を食べてもらおうか」「何から話そうか」、いろいろ思い浮かべては気をまぎらわせていました。
消息がわからないまま月日だけが過ぎていきました。終戦から8年、昭和28年(1953年)のことです。娘は障がいがあるため学校には行けず、毎日家にいて、息子は小学3年生になっていました。ある日、お国から1通の郵便が届きましてね。胸騒ぎがしましたけれど、開封すると「箱石二郎 満州吉林省虎頭に於いて戦死、1945年8月19日」とありました。
しばらくはなんのことだか吞み込めませんでした。力が抜けてしまって、頭も動かない、何も考えられない、という感じになりまして、声も出せなかった。手紙には「4月何日に遺骨を渡すのでどこそこに取りに来るように」とあって、真偽も確かめようがない。半信半疑のまま息子を連れて上京し、指定された場所に行きました。名前を呼ばれ、白い布に包まれた小さな箱を引き取り、そっと胸に抱きました。
骨箱の中には「ただの板切れ」
葬儀は箱石家の菩提寺、目黒にある祐天寺でやりました。もともと箱石家は神道だったそうですが、当時、箱石家の中心となっていたのは、夫の父・朝政さんの何番目かの奥さんで、その方が改宗したんでしょうね。夫の妹やわたしの叔父夫婦、妹夫婦も来てくれて、祭壇に遺骨をのせて、お経をあげてもらうという、小さな小さなお葬式でした。その後、代々の墓が青山墓地にあるので、祐天寺からは車で移動する手はずになっていました。
そのとき、遺骨を抱いて歩いていたのは息子です。まだ小学3年生ですから、お父さんへの思いや慣れないことへの緊張があったのでしょうね、車に乗るときに、何かにつまずいて転びかけました。「あ!」と声が出て、と同時に、遺骨が入っている箱の中で「カラカラカラ」と音がしました。乾いた軽い音でした。
そっと中を見ると、箱に入っていたのは夫の遺骨でもなんでもない、ただの板切れが1枚……。一瞬、歩けなくなってしまって立ちすくみ、「いったいこれはなんだろう、なんなんだろう」と、考えても考えても答えはまとまりませんでした。「ふざけんな!」。車の中で息子が大きな声で叫びました。
いつもなら言葉遣いに厳しいわたしでしたけれど、叱れませんでした。同じ気持ちだったですからね。これは、息子にとっても大きな傷を残した出来事でした。