もしかしたら、どこかで生きているんじゃないか

でも、参列してくれている身内もいるし、騒ぎ立てるわけにもいかず、納得できないまま、板が1枚入った遺骨箱をそのまま埋葬しました。板切れに夫の魂が込められているとでもいうのでしょうか……。なんの説明もありませんでしたからね。「箱石二郎さんのご遺骨です」と渡されたのが板切れ1枚です。誰がどう決めてこうなったんでしょうか。当時、うちだけじゃなく、たくさんの家に板切れが届けられたのでしょうね。馬鹿にしてますね。夫が死んだのは「1945年8月19日」となっています。それが本当ならば、終戦の4日後ということになりますよね。死ななくてよかったんじゃないでしょうかね。

敗戦が決まったあとでも、中国などアジアの山奥にいた兵隊さんたちの中には、日本が降伏したということを知らされてなかったり、聞いても信じなかった人がいたそうです。戦後80年近く経って帰国した横井庄一さんや小野田寛郎さんのような方もいらっしゃったんですから。

夫の葬儀から71年経ちましたけど、ずっと心の中に引っかかっています。「本当に、あの板切れはなんだったのかな……」。今でもふと考えるときがあります。答えは出ないんですけどね。だからでしょうかね、夫の戦死をなんとなく完全に受け入れられてないというか。

「もしかしたら、どこかで生きているんじゃないかな」という思いが、胸の奥から何度も何度も湧き上がってきました。「いつか帰ってくるかもしれない」と、そういう気持ちがずっと、今もあります。

両親も他界。頼れる人がいなくなった

終戦から2年後の昭和22年(1947年)、父が死に、その翌年に母も亡くなりました。両親2人とも闘病の末の旅立ちで、静かに見送ることができました。

わたしと2人の子どもは、両親がいなくなった隠居にこれまでどおりに住んでもいい、姉や兄、妹から許され、そうさせてもらっていました。そこで、もう嫌な陰口など叩かれないように、昭和23年に理容師免許を取り直して、正式な看板を掲げた理髪店として夫の帰還を待っていたんです。

けれど、夫は帰らぬ人となりました。両親の死後、姉が婿を取り跡を継いでいる本家との関係が、少し変わってきました。これまでも何かと厄介はありましたけれど、お互いに助け合い、気を使ってそれなりにうまくやっていたんです。でも次第に、あちらは迷惑だというのを隠さないようになってきました。

夜は、親子3人で“もらい風呂”に行くんです。本家の家族が入浴を済ませたあとを見計らって行くんですけど、追い焚きの薪を1本燃やすのにも神経を使わなければいけなくなり……。毎日のことですからね、こたえました。