母親以上にたくましく生きた
万寿2年(1025)、娘を産んだ直後、道長の六女の嬉子が出産した親仁親王(嬉子は出産後に死去)の乳母に選ばれたことが幸いした。その後、東宮権大進の高階成章と再婚して一男一女をもうけていた賢子は、寛徳2年(1045)、親仁親王が即位すると(後冷泉天皇)、典侍(後宮の事実上のトップ)に抜擢され、さらには従三位に任ぜられた。
このとき、夫の成章も大宰大弐に就任しており、このため賢子は「大弐三位」と呼ばれるようになった。文才を母から受け継ぎ、歌集に『大弐三位集』があり、この名で百人一首の歌人としても知られる。
さらには80歳前後までの生存が確認されており、ある意味、母以上にたくましく生きたことが、史料から確認できるのである。