「彼女(岸田)が遺言書キットの開発を進めていることは全員が了解していました。前例のないことなので、苦労をしていることもわかっていた。だから手助けしたいという気持ちも、みんなにありましたね」(福田)
月曜日の朝、事業部全体の朝礼を終えたあとで、福田のグループは全員参加のミーティングを持っていた。メンバーそれぞれがその週の予定を発表し、確認しあうのだ。
そのときに福田が「ちょっといい?」と切り出し、全員が在社している時間帯を選んで「岸田さんの企画のために1時間くらいブレストをやろうよ」と提案するのである。
福田は週1回、メンバー全員と1対1で面談する時間も持っていた。1人当たり30分から1時間。前週の報告を受け、それをもとに福田がフォローするのである。
ここでも福田は岸田のよき相談相手となった。
「商品化のコンセプトづくりは東口と岸田で進めていました。私の仕事は実務レベルで岸田をサポートすることと、他のメンバーを集めて忌憚のない意見を出させるということでした」
企画の担当者はあくまでも岸田である。だが、企画内容にあまりに深く入り込んでしまうと、消費者からどう見えるのかがわからなくなってしまう。そこへ外からの視点を持ち込み、軌道修正をうながしたのが上司や同僚たちの声だったのである。
どうやって大阪とやり取りしたか
2年ほどの開発期間を経て、遺言書キットは09年6月に発売された。反響は大きく、わずか4カ月で年間販売予定をクリアしてしまった。そこで同社は、開発期間のヒアリングや発売後のアンケートでも要望の多かった「エンディングノート」を、引き続き岸田の主導で開発することに決めたのである。
ただし、今回は「大阪本社の開発部門と協力して開発を進めること」が条件だった。岸田が勤務する東京オフィスとは物理的に距離があるだけでなく、ほとんど顔を合わせたこともない相手である。コミュニケーションの取り方が大きな課題になるのは間違いなかった。