「高級フレンチは格上」という価値観を転倒させようとしている

素直に聞き流せば、それはそれで一つの意見だと思われるかも知れませんが、ここで見逃してはいけないのが、この主張には一般に考えられている「高級フレンチは格上で、サイゼリヤは格下」という価値観を、わざわざ転倒させてやろうという意図が明確に含まれている、ということです。

まず、そもそも「高級フレンチ」などというレストランは存在しません。本書執筆時点で最新の『ミシュランガイド東京2018』を開いてみれば、三つ星ではカンテサンスとジョエル・ロブションが、二つ星ではロオジエやピエール・ガニェールなどの「高級フレンチ」が紹介されていますが、実際に行ってみればすぐにわかる通り、これらのレストランで出されている料理や雰囲気は、まったくと言っていいほどに異なります。

当然のことながら、「カンテサンスは大好きだけど、ロブションはどうも……」といったこともあるわけで、「高級フレンチ」と一括りにして「良い・悪い」を比較できるようなものではありません。

「高級フレンチで食事をする人」をなんとか否定したい

つまり「高級フレンチ」などというレストランはイメージの世界にしか存在しない、言わば抽象的な記号にすぎないということです。

豪華なグルメレストランでの夕食中に赤ワインを提供するウェイター
写真=iStock.com/wundervisuals
※写真はイメージです

抽象的な記号と実在するレストランを比べて、どちらが「好きか嫌いか」などと議論することはできませんから、もとよりこの比較考量はまったくのナンセンスだということになるわけですが、ではなぜそのような空虚な主張をしているのかというと、その背後に「高級フレンチは格式の高いレストランであり、そこに集う人は洗練された趣味と味覚を持っている」という一般的な価値観、もっと直裁すれば「高級フレンチで食事をする人は成功者だ」という価値判断を転倒させたい、というルサンチマンがうごめいているからです。

このように主張している本人たちは、バブル的な価値観に染まっていない自分たちの先進性やクールさに独善的に陶酔しているようですが、もしそうなのであれば単に「自分は高級フレンチにはあまり行ったことがないけれど、サイゼリヤでも十分に美味しいよ」と言えばいいし、さらには単に「サイゼリヤが好きだ」と言えばいいだけのことでしょう。誰も文句は言いません。

なぜ、そう言わないのか。

山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)
山口周『武器になる哲学 人生を生き抜くための哲学・思想のキーコンセプト50』(KADOKAWA)

理由はシンプルで、そんなことを言っても本人のルサンチマンが解消しないからです。

抽象的な記号でしかない「高級フレンチ」という概念を持ち出してきてサイゼリヤとの価値比較をした上で、「自分は後者を好む」とご丁寧に主張なさるというのは、前者を好む人たちよりも自分たちは優位にあるという主張にこそ主眼がある、ということでしょう。

これは「ルサンチマンに囚われた人は、ルサンチマンの原因となっている価値判断を転倒させようとする」というニーチェの指摘にまったく合致します。