嘲笑った本人が「馬鹿にされる対象」になることもある
動画を視聴している最中、このモノサシは赤の他人に対して適用されます。動画内の人物たちに同調するように、特定の大学を嘲笑うことも大いにあるでしょう。
ところが、このモノサシは自分や自分の周囲にいる人々に対しても、否応なしに適用されてしまいます。そして自分や周囲の人々だけが、「日本人の大部分」に入らないなどというご都合主義は滅多に起きません。
結果、自分自身に刃が向けられるのはもちろんのこと、周囲もまた嘲笑の対象となることで、その関係性にヒビが入ってしまいます。
塾の中にも、この『wakatte.TV』にはまってしまった中学生がいました。クラスで視聴している男子が沢山いて、彼らに薦められるまま視聴したことがキッカケだったようです。
大変にマズイと思った私は生徒に対し「あの動画では○○大学が馬鹿にされているけど、そこに入れるのはせいぜいクラスの上位10%くらい」だと告げました。その生徒は上位10%どころか20%にも入っていませんでしたので、君こそが馬鹿にされる対象だと言ったようなものです。
かなり際どい発言ではありましたが、大学受験期になってから現実に気付くよりマシだと思ったのです。そして案の定、こうした大学受験の実情について生徒は何も知りませんでした。
かつて動画を見ながら散々馬鹿にしていた大学が、自分の母校になってしまうという顛末は目も当てられません。そしてそれは、内面化した歪んだ規範が、自分にも適用されてしまった結果に他なりません。
“落語家の不謹慎ネタ”とはまるで違う
蛇足ですが、このYouTubeチャンネルに登場するような過激なYouTuberに対し、以前から私は強い違和感を覚えていました。誤解を恐れずに言えば、そこに自分の行為に対する客観的な認識、すなわち不謹慎の倫理がないからです。
この件について、立川談志師匠の考えが示唆的です。その考えを私は、談志師匠の著作を踏まえ次のように解釈しています。
落語家は非常に身分の低い人間だ。世間から蔑まれる存在である。だから不謹慎なネタを発したとしても、世間の常識に生きる人々は「下らない落語家が馬鹿げたことを言っている」という認識の下、落語家と自分の間に線を引き、距離感をもって笑うことができる。
息苦しい規範という拘束に縛られた人々は、落語家の非常識な語りによってガス抜きをする。そして寄席から出れば、また常識の世界を生きていく。もちろん、相手は下賤な落語家なので、その規範を内面化しようなど夢にも思わない、といった具合です。
これは、不謹慎なネタという禁忌を侵す自分に対し課した制約であり倫理でもあります。不謹慎の倫理とは語義矛盾そのものですが、この倫理が果たす役割は少なくないでしょう。が、この手のネタが、昨今では表に出せなくなっているのは周知のとおりです。
そして表に出すのが難しくなったネタは、不謹慎の倫理をまるで持たないYouTuberたちによって、ただ単に下劣に展開されてしまいます。こんなことであれば、以前の方がマシだった気がするのは私だけでしょうか。