姉・彰子とは真逆の性格
そんな様子を苦々しく思っていたのが、姉の彰子だった。ある日のこと、道長の主催で公卿や殿上人を誘い、彰子の在所である枇杷殿で宴会が開かれるところだった。ところが、公卿たちが食料をもって集まると、宴会は中止だという。『小右記』によれば、彰子付きの女房は実資に、彰子がこんなふうに語ったと告げたという。
最近、中宮(姸子)が頻繁に宴会を開いているので、公卿たちは困っているのではないか。私は夫を悼み悲しむばかりだが、公卿たちには腹に据えかねる思いがあるだろうし、そこで私が宴会をしたら、妹の繰り返しになってしまう――。公卿たちは日々、食料を持ち寄って疲弊しており、いまは道長に従っている人も、道長の死後にはなにをいうかわからないから、即刻やめるべきだ、というのが彰子の意見だった。
余談だが、「彰子付きの女房」は紫式部である可能性が高い。
実資は彰子の判断に対し、「賢后と申すべし。感あり感あり(賢いキサキだと申し上げるほかない。感心する、感心する)」と書いている。
実際、姸子はこうしたしっかり者の姉とは、かなり異なるタイプだった。
たとえば、長和2年(1013)4月、出産を控えた姸子が土御門殿に移る途中に彰子の御所に立ち寄り、饗宴が開かれたことがあった。このとき姸子にはいくつかの贈り物があり、その一つは藤原斉信から贈られた絵草紙などだった。
なんと姸子は、それをそのまま彰子に贈ったのだという。服部早苗氏は「贈物の横流しである」と指摘している(人物叢書『藤原彰子』吉川弘文館)。ちなみに、彰子は翌日、人がせっかくくださったものを、と書き添えて、それを姸子に返したという。
史実に残るパーティー好き
その後、姸子はふたたび気の毒な目に遭う。7月6日、姸子は産気づいてからわずか2時間で無事、出産を遂げたが、生まれたのは禎子内親王だった。皇子の誕生を期待していた道長は、『小右記』によれば、露骨に不満の色を示したという。
このため産養(出産後3日、5日、7日、9日目の夜に開く祝宴)は盛り上がらず、五十日の儀でも道長は飲みもせず、実資に批判されている。
だが、その後も姸子の記録は、派手な催しとともにある。たとえば、治安元年(1021)9月、皇太后になっていた姸子と女房たちが無量寿院で法華経を書写し、供養している。その経が普通ではない。上下に絵が描かれ、黄金や銀の枝や玉、七宝などで飾られ、経箱は紫檀でできており、女房たちの服装もあでやかで、じつに華麗だったという。
あるいは万寿2年(1025)正月、姸子が枇杷殿で行った皇太后大饗(正月に行う大規模な饗宴)でのこと。
じつはこのころ過差禁制といって、女房には6枚以上の服装は着せないなど、規定以上の装束を着ることが禁じられていた。ところが、姸子はそんなことはどこ吹く風で、女房たちは3色で15枚以上の袿など豪華絢爛な衣裳で着飾っていたという。このため、頼通は姸子に説教し、頼通は翌日、管理不行き届きで道長から叱責されている。