三条天皇が寵愛したのは姸子でなかった

このとき止めに入ったのは、三条天皇の女御で敦明の実母である娍子(朝倉あき)だった。この娍子については、同じ第41回の少し前の場面で、三条天皇が言及していた。

三条天皇は道長に「朕の願いをひとつ聞け」と命じて、こう続けた。「娍子を女御とする。姸子も女御とする」。対して道長は、「娍子様は亡き大納言の娘にすぎず、無位で後ろ盾もないゆえ、女御となさることはできませぬ。先例もございませぬ」と反論した。ところが三条天皇は聞き入れず、「娍子も姸子も女御だ」と道長に伝えて、立ち去った。

三条天皇像
三条天皇像(写真=『百人一首画帖』より/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

たしかに、姸子にも同情すべき点がある。三条天皇のこのセリフは、道長の娘の姸子だけを優先するつもりはないという宣言だが、史実においても、三条天皇はそのように行動した。というのも、娍子を寵愛していたからである。

娍子は藤原氏の本流ではない済時なりときの娘。したがって政治的には重要とはいえない妻だったが、三条天皇はそんなことには構わず、敦明親王以下、6人の子を産ませた。そこに道長が打ったくさびが、天皇より18歳年下の姸子で、彼女は長和元年(1012)2月14日、中宮となった。

これに対し、三条天皇は妍子の立后を受け入れながら、寵愛する娍子も皇后として立后させるように求め、2カ月後に実現させている。ドラマでの「娍子も姸子も女御だ」という言葉は、その史実を表している。

連日のどんちゃん騒ぎ

これは「一帝二后冊立」といって、かつて一条天皇の中宮として定子がいたところに、道長が彰子を割り込ませたのと同じ手法だ。三条天皇はそれを逆手にとって、道長に対抗したわけで、姸子の立場は、一条天皇に入内したばかりのころの彰子の立場に似ている。すなわち、天皇はもとからいた女御を寵愛し、あらたに入内した若い女御は相手にしない――。

その点では、姸子は気の毒なのだが、では、史実の姸子も破天荒だったのか。どんな人生をたどったのか、確認していきたい。

中宮になった姸子は、三条天皇から無視されたわけではなかったようだ。間もなく懐妊している。ところが、懐妊したことで移った東三条殿が火事になり、猛火のなか藤原斉信ただのぶの屋敷に移った。同情に値する話だが、姸子らしいのはその後である。

まず藤原広業ひろなりが飲食物を献上し、大勢の上達部が参加して、火事見舞いの饗宴が開かれた。続いては、藤原正光が飲食物を持参して饗宴が開かれ、姸子の御前で蹴鞠も行われた。藤原道綱も同様に食料を持参し、終日管弦の催しを行っている。要は、懐妊中に焼け出されて気の毒なはずの姸子は、連日どんちゃん騒ぎをしていたのである。

談山神社のけまり祭
談山神社のけまり祭(写真=radBeattie/CC-BY-SA-3.0-migrated-with-disclaimers/Wikimedia Commons

実際、『栄花物語』にも、姸子は派手好きだと書かれている。