現在のメジャーリーグでは、大谷翔平選手を筆頭に多くの日本人選手が大活躍している。その最初の1人となったのは誰なのか。ノンフィクションライター・長谷川晶一さんの著書『海を渡る サムライたちの球跡』(扶桑社)より、「マッシー村上」と親しまれた村上雅則さんのエピソードをお届けする――。
米大リーグのジャイアンツでメジャーデビューし、羽田空港で記者会見する村上雅則投手(左)=1964年12月、共同通信
写真=共同通信社
米大リーグのジャイアンツでメジャーデビューし、羽田空港で記者会見する村上雅則投手(左)=1964年12月、共同通信

プロ2年目、19歳でアメリカへ野球留学

1964(昭和39)年春――。

南海ホークス入団2年目を迎えていた村上雅則はアメリカに旅立った。入団時に鶴岡一人監督と交わした「アメリカに野球留学させる用意がある」という約束が早くも実行されたのだ。

この年のホークス投手陣は、エースの杉浦忠を筆頭にジョー・スタンカ、皆川睦男、森中千香良、三浦清弘など質量ともに充実した陣容を誇っていた。

結果的にこの年、ホークスはリーグ制覇を実現し、日本シリーズではセ・リーグ覇者の阪神タイガースを破って日本一となっている。

19歳の若手投手の力を借りずとも、ペナントレースを戦うだけの戦力は整っていた。

この年の春、プロ2年目19歳の村上、入団したばかりで18歳の高橋博、田中達彦の一行はサンフランシスコ・ジャイアンツの下部組織であるフレズノ・ジャイアンツがアリゾナ州フェニックスで行うキャンプに参加することとなった。

若き日本の左腕は十分に通用した

羽田空港を離陸し、ハワイでの給油を経てサンフランシスコに到着した。すぐに球団事務所にあいさつに行き、60年にオープンしたばかりの本拠地・キャンドルスティック・パークを訪れ、さっそくマウンドに上がった。それまで日本の球場しか経験したことのない村上は「これが本場アメリカの最新鋭のスタジアムなのか」と感激を隠せなかった。

(いつの日か、オレもここで……)

漠然と抱いたその思いが、それから半年後にまさか現実のものになるとは、この時点ではまったく想像すらしていなかった。

すぐにスプリングキャンプが始まった。順調に日程を消化し、村上は1A相手に好投を見せた。自分でも驚くほど、相手打者は若き日本の左腕が繰り出すボールにとまどっている。高橋と田中は当初からルーキーリーグでのプレーが決まっていたが、村上はなおも1Aでプレーを続けることになった。