「ジャップと呼ぶな」と言ってくれた監督

結局、誰がやったのかはわからなかった。決してアジア人に対する嫌がらせではなく、単なる退屈しのぎのいたずらだったのかもしれない。けれども、その勢いに誰もが圧倒されていた。その瞬間、「勝った」と村上は思ったという。

村上にさまざまなアドバイスをしていた監督のビル・ワールはかつて、「読売ジャイアンツ」の名づけ親としても知られるフランク・オドールとともに来日経験があった。それ以来、親日家となり、村上に対しても親身になって接してくれていた。

「彼は日本びいきで、日本人の気質もよく知っていました。《ハラキリ》を例に挙げて、“サムライはいざというときには捨て身でぶつかってくる”とチームメイトに言っていたそうです。僕がいないときにはみんなを集めて、“マッシーのことを決して《ジャップ》と呼んではいけない”と諭していたということも後で知りました」

頼れる存在は何もなかった。すべてを独力で切り拓いていくこと、問題を解決していくことでしか自分の居場所を築くことはできなかった。

海を渡る、とはつまりは、そういうことだった。

弱冠20歳ながら、村上はアメリカで生きる術を身につけていく。次第に強くたくましくなっていく。強い者が勝つのか、勝った者が強いのか?

今から60年前の9月、メジャー初デビュー

グラウンド内外での奮闘はこの後も続くことになる。

日本人として初めてメジャーリーグのマウンドに立った。9月1日、記念すべきメジャー初登板は1イニングを投げ、打者4人に対して、三振、センター前ヒット、三振、そしてショートゴロで切り抜けた。上々のデビュー戦だった。

アジア人としても初めてのメジャー登板だった(撮影=ヤナガワゴーッ!)
撮影=ヤナガワゴーッ!
アジア人としても初めてのメジャー登板だった

「でも、本当に感激したのはその日よりも、翌朝の新聞を見たときでした。各紙大きな見出しで《日本人初のメジャーリーガー》と書かれていました。それを見たときはやっぱり胸が高鳴りましたね。

さらにその日からは、マイナー時代とは一転して一流のホテル、一流のレストランと待遇ががらりと変わりました。それだけメジャーリーガーは国民的英雄だということです」