第二皇子が生まれたことで運命が変わった

ただ、彰子は敦成親王を出産した翌寛弘6年(1009)11月25日にも、敦良親王を出産している。彰子はみずから求めて、紫式部から一条天皇好みの『白氏文集』の「新楽府」を学ぶなど、一条に近づく努力を重ねた。それが一条に受け入れられたという面もあるだろう。

だが、彰子が敦成親王を出産し、さらに第三皇子の敦良親王まで出産したとあっては、敦康親王は、道長にとって完全に無用な、それどころか、邪魔な存在になってしまった。それは道長だけでなく、宮廷全体の意識だといってもよかった。

後見が安定しない敦康親王より、最高権力者の外孫である敦成親王のほうが、皇位を継承した場合に政権の安定、すなわち世の安寧につながる。下級役人から公卿までそういう意識をいだいている以上、敦成が支持されるのは当然だった。

だが、それは一条天皇にとって、きわめてやっかいな状況を生み出すことになった。敦康を東宮にしたいと願ってもかなわない、という問題を超えて、自分自身の立場を脅かすことにつながっていった。

道長はこのとき40代も半ばで、その年齢は現在であれば、政治家としてはむしろ若いくらいだが、平均寿命が短かった平安王朝期においては、すでに老齢といってよかった。しかも、『光る君へ』では描かれないが、道長は病気がちだった。だからなおさら、自分の外孫である敦成親王が誕生した以上、一刻も早く東宮にし、即位させたいと考えたはずだが、それはすなわち、一条天皇が退位を急かされるということだった。

天皇を窮地に追い込む道長

実際、道長は一条天皇が譲位する時期を探りはじめた。そして、敦成が産まれた2年半後の寛弘8年(1011)5月22日に、一条天皇が病に倒れてから、事態は急速に進むことになった。

その日、藤原行成の日記『権記』によれば、一条天皇は彰子の後宮に渡ったのちに倒れた。具体的な症状は伝えられていないが、それを受けた道長の行動のせいで、一条は窮地に追い込まれてしまう。

道長は5月25日、儒学者の大江匡衡おおえのまさひらを呼び、一条天皇の病状と譲位について占わせた。そんなことをしたのは、道長は一条天皇に譲位させてもいいと思っていたからだが、その結果、譲位どころか、一条が死去するという卦が出たのである。さすがの道長もこれには驚いて、一条が寝ている清涼殿夜御殿の隣室に控えていた護持僧の慶円に、占文を見せた。

『権記』によれば、そのとき一条天皇は御几帳の継ぎ目から道長と慶円の様子をのぞき見していて、話をすっかり聞いてしまったというのである。

一条天皇の病状は、じつはこの25日にはほとんど回復していたのだが、自分の病状や道長のたくらみを聞き知った結果、体調が一気に悪化してしまった――。そう『権記』には記されている。この時代には、陰陽道による占いは、現代における科学に相当した。だから道長も匡衡も占いの結果に驚き、それを間接的に知ってしまった一条も驚愕したのだ。

一条天皇にすれば、予期せず余名宣告を受けたようなもので、そのうえ道長が自分の譲位を望んでいることまで知ってしまったとあっては、急に体のバランスが崩れ、病状が悪化しても不思議ではない。

藤原道長
藤原道長(写真=東京国立博物館編『日本国宝展』読売新聞社/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons