一条がよろこんだという史料はない

一方、敦成の父である一条天皇はどうだったのか。もちろん、それなりにはよろこんだのだろう。

出産は当時の慣例に倣って、彰子の実家、すなわち道長の邸宅である土御門殿で行われ、その後、敦成は11月17日に、はじめて内裏に参入することになっていた。しかし、一条天皇はそれでは遅すぎるからと、10月17日、みずから土御門殿に行幸している。道長の日記『御堂関白記』によれば、そのとき一条は敦成を抱き、親王の宣旨(天皇の命令を下達すること)をくだした。

ところが、一条天皇が敦成親王の誕生をよろこんだという記述は、史料上には見つけられないのである。

すでに第一皇子がいるところに第二皇子が産まれただけなら、珍しいことではない。しかし、敦成の誕生は、第一皇子は後見人の力が弱いのに対し、第二皇子は時の最高権力者の外孫だという、大きなねじれにつながった。それを憂うる気持ちが、一条にはあったのかもしれない。

事実、敦成親王の誕生は、その後の一条の幸福につながったかというと、そうは言い切れない。一条は道長に導かれるようにして、そんな状況を生み出してしまったことに、忸怩たる思いがあったのかもしれない。

【図表1】藤原家家系図

道長から受けたすさまじいプレッシャー

長保元年(999)11月に入内したとき、彰子は数え12歳だった。天皇の子を産むにはいかにも若すぎたが、それだけではなく、そのころ一条の心は皇后定子に占拠されていた。

一条と定子は政略結婚による夫婦だったが、当時としてはレアな「純愛」を貫き、長保2年(1000)末に定子が没してからも、定子の後宮を美化して描いた清少納言の『枕草子』の力も相まって、一条の心は定子のもとに留まった。彰子が成長してもその状況は変わらなかった。

彰子が19歳になっても、一条は彼女の後宮に渡って来ず、懐妊の兆候は一切ない。そこで寛弘4年(1007)8月、道長は奈良県吉野町の霊山、金峯山に詣でたのである。それは単なる寺社参詣ではなかった。

まず、参詣する前に75日とか100日にわたり、閉所にこもって酒も魚も女も断つ「精進潔斎」が必要だった。それを終えてから予行演習を重ねていよいよ参詣するのだが、山中には鎖を伝って登らなければならない岩もあるなど、参詣自体が命がけだった。しかも、そこに名立たる高僧をふくむ大勢の僧侶や人足を連れて登り、大量の品々を献上し、読経や祈祷を繰り返した。

道長が真っ先に向かったのが、子供を授かりたい人が祈願する「小守三所」だったことからも、この国家行事と呼べるほどの大がかりな参詣の最大の目的が、彰子の懐妊祈願であったことはあきらかだった。最高権力者にここまでされれば、一条天皇も大きなプレッシャーを感じ、彰子との子づくりに励まないわけにはいかなかったことは、容易に想像できる。