「私が死んだら、この子は誰が面倒を見るのだろう」
檜尾さんが第二子となる長男を出産したのは1993年。2歳のときに自閉症と診断されたが、当時は、県立や市立などの大きな病院にさえ「自閉症のことはわかりません」と言われるだけで、途方に暮れた。
「壮絶な子育てでした。息子は暴れたり、窓を割ったり、家から出て行方不明になったりするので、いつも『やめなさい!』『危ない!』って怒ってばかり。ある日、息子の寝顔を見ながら、私が死んだらこの子の面倒は誰が見るのだろうって思ったんです。そうだ、私が死ぬときはこの子を連れて行ったらええんや……。そう考えたら楽になったんです。夫には叱られましたけど、そこまで追い詰められました」
長男が小学校に上がったころ、ある児童精神科医の存在を知って診察を申し込むと、なんと3年待ち。待ちに待ってようやく診てもらうと、すぐに「PECS(ペクス)」という絵カードを使ったコミュニケーションのトレーニングが始まった。これは1985年にアメリカで開発されたもので、目に見えない事柄への理解が難しいために他者とのコミュニケーションに困難がある人でも、絵カードで意志を伝えやすくするツールだ。
「『お母さん、来て』『ここに連れて行って』『ここが痛いの』。息子はカードを使っていろんな気持ちを表現してくれるようになりました。今までの問題行動は、自分の思いが伝わらなかったからだってことがわかったんです。スムーズにコミュニケーションが取れるようになってから、息子の問題行動は一切なくなりました」
ようやく訪れた平穏な日々。そのとき、檜尾さんにある考えが浮かんだ。
「自分たちのように困っているお子さんや家族がほかにもいるはず。その人たちを救いたい、そう思ったんです」
早速、発達障害の子を育てている3人の友人に声をかけ「親の会」を立ち上げた。集まって悩みを打ち明けたり情報交換したりする場だったが、口コミで参加者が増え、最大100人ほどに膨らんだ。
「みんな、地域から孤立していました。公園に行っても、人がサーッといなくなっちゃうんですよ。親が安心して子どもたちを遊ばせることができる居場所をつくりたいと、行政に相談し、2006年6月にNPO法人を立ち上げました」
古い賃貸マンションの一室で始まった活動は、母親たちが手弁当の当番制で運営に携わった。しかし、自分の子どもだけでなく、よその子どもの面倒も見る大変さに疲弊。苦情が出始め、次々と去って行った。檜尾さんは「私一人でもやる」と断言。残ってくれた数人の女性たちと活動を続けた。その後、障害児ボランティアに携わる学生が助っ人に来てくれることになり、増え続けるニーズに対応。徐々にスタッフに報酬を払えるようになっていった。