河合純一(日本パラリンピアンズ協会会長)
名刺をみれば、「全盲の鉄人」と書かれている。パラリンピック水泳競技に1992年バルセロナ大会から昨年のロンドン大会まで6大会連続で出場し、日本選手最多の21個のメダルを獲得してきた。
障害を乗り越え、自身の境遇に最善を尽くす37歳。「夢追いかけて」がモットー。ただいま2020年東京五輪パラリンピック招致を全力で応援する。
1月下旬のイベントのスピーチでも、同五輪パラリンピック招致に触れた。
「支持率がどうのこうのと言われていますけれど、ちょっと視点を変えて、パラリンピックを東京で行う価値を共有できたらいいなあ、と思っております。高齢者や障害者も、だれもが豊かにスポーツを楽しめるようにしたい。そのメッセージを東京から世界に発信したいのです」
平坦ではない、波乱の人生を歩んできた。静岡県浜名郡の舞阪(まいさか)町出身。生まれつき左目は見えず、15歳で右目の光も失った。それでも水泳を続け、「世界」を目指し続けてきた。早大卒業後、中学教師を経て、静岡県教育委員会にも勤務していた。
だから、パラリンピックの価値をよくわかっている。「毎回、楽しかったですね」と、顔をほころばす。
「パラリンピックは、お祭りみたいなものです。基本的には、4年に一度のお祭りだから、楽しまなきゃ損なんです。そのステージで泳ぐオモシロさがあるけれど、他の選手をみたりするオモシロさもあるんです」
ロンドンのパラリンピック大会ではかつての英国人ライバルと再会した。その選手は現役を引退し、表彰式のプレゼンターを務めていた。
「東京の時、自分が選手で出たいという気持ちがゼロではないけれど、どういったカタチでも大会を盛り上げたいな、と思います。それぞれの(五輪パラリンピックへの)関わり方があるのです」
ロンドン五輪パラリンピックのあとの日本と英国でのパレードは大きな違いがあった。日本は五輪メダリストだけだったけれど、英国では五輪選手、パラリンピック全選手だった。もうひとつ、「銀座の人々は五輪で活躍した選手を見にきた。ロンドンではイベントを一緒に成功させたことを、共に喜んでいた。実はロンドンでは、カメラで選手を撮っている人がほとんどいなかったのです」という。
「東京がそうなれるかどうかが、大会成功のカギなんです。それこそ意識改革です」
もちろん、その前に9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)の総会で東京は勝たなければいけない。4年前の2016年五輪パラリンピック開催地(リオデジャナイロ)決定の際は、IOC総会で東京応援者としてプレゼンをした。夢は叶わなかった。
でも「夢追いかけて」と繰り返す。「みんなで夢の東京パラリンピックを追いかけよう」と、声を張り上げた。
「みんなで、夢を、追いかけよう。難しく考える必要はない。やれることをやればいいんです。できることはたくさんあります。招致委員会のフェースブックの“いいね”を押すだけでもいい。何でも、やらないより、やったほうがいい。それぞれが、今やれることをやるしかないんです」