出演を渋った萩本欽一
まず決めなければならないのは、番組の顔となる総合司会である。
ひとりは『11PM』からのつながりもあり、大橋巨泉に決まった。そしてそのパートナーとして、大橋が司会の『クイズダービー』(TBSテレビ系)のレギュラー解答者で才女の評判も高かった俳優の竹下景子が起用された。
ただしこの2人は番組全体の進行役。ほかにチャリティーの先頭に立つ人間も必要だ。そこで白羽の矢が立ったのが、当時テレビタレントとして絶頂期にあった「欽ちゃん」こと萩本欽一である。
萩本は、『欽ちゃんのドンとやってみよう!』(フジテレビ系)や『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)などが軒並み大ヒット。どの世代からも愛される国民的人気者だった。日本テレビでも人気オーディション番組『スター誕生!』の司会をしていて、当然と言えば当然のオファーだった。当時37歳。
だが当初萩本は出演を渋った。実はすでに、ラジオで似たような大型チャリティー番組のパーソナリティをやっていたからである。
その番組とはニッポン放送の『ラジオ・チャリティー・ミュージックソン』。目の不自由な人のために音の出る信号機を増やそうという目的で始まった。やはり年1回24時間の生放送で、萩本欽一はこのメインパーソナリティを1975年からずっと務めていた。
なぜタモリが抜擢されたのか
それでも製作総指揮にあたった日本テレビ(当時)の井原高忠は、ニッポン放送の了承を取りつけたうえで旧知の仲だった萩本を口説きに口説いた。そして結局、萩本は出演を決意する。そのパートナーとして、『水色の時』(1975年)で朝ドラのヒロインを務め、人気若手俳優になっていた21歳の大竹しのぶもキャスティングされた。
一方総合司会ではないが、こうした「いい人」イメージのキャスティングに対して異彩を放っていたのがタモリである。
当時はまだ『笑っていいとも!』が始まる前で、タモリは毒の強いパロディ芸を得意とした怪しい「密室芸人」だった。どう見ても、チャリティー番組向きではない。だが萩本と大竹に次ぐポジションで出演した。
番組初期、タモリは事前コマーシャルにも起用された。それは、自分も権威が嫌いと公言する都築忠彦の意向でもあった。
たとえばこんなコマーシャルである。スタジオの地球儀を見たタモリがアドリブで、当時関西弁の辛口評論家として有名だった竹村健一の物まねでこう語り出す。「いま、オイルショックやらなんやらでいろいろ大変なのに、この国だけだよ、チャリティーチャリティーと言うてるのは」(『文春オンライン』2019年11月24日付け記事)。
いまなら『24時間テレビ』でこんな自己批判ともとれるCMが流されることなどあり得ないだろう。先ほどふれた『11PM』的な硬軟のバランスが、開始当初いかに重視されていたかの証しである。