やらされている仕事にやりがいなど生まれない
今回は少し視点をずらしてみて、夫婦という人間関係ではなく「仕事」に置き換えて、この落語の現代的意義を追求してみましょう。
キーワードは“主導権”ではないでしょうか?
この落語に関して言うならば、「女房が注意して禁酒した場合」と「魚勝が自主的に禁酒した場合」との違いを考えてみましょう。
前者は主導権が女房にあり、後者は主導権が魚勝本人にある形になります。
この物語が重みをもって時代を超えて伝わっているのは、魚勝がやりがいを持った格好で生き抜いているからではないでしょうか。だからこそ、噺の後半に輝きが増しているのです。
そして、ラストの「よそう。また夢になるといけねえ」という名セリフ。これもまた、主導権が魚勝にあったからこそ、自分で「断る」という選択ができたのでしょう。困難克服力のことを「レジリエンス」と呼びますが、それは主体性や主導権が自分にあるかどうかで決まってくるものです。
医者に勧められて、しぶしぶ始めたダイエットは続くわけもありません。やはり主体性がないことには、継続は不可能です。私が20年近く続けている筋トレなんざ、重いダンベルを上げ下げするだけのものですが、誰かにやれと言われてやっているなら周囲からは苦役にしか見えませんし、無論、筋肥大も起きません。
仕事もやらされているうちは身が入らず、結果として他人のせいになってしまうものです。
他人のせいにしたほうが楽になれる
前座修業中、よく師匠に言われたのが「俺はお前に、ここにいてくれと頼んだわけじゃない」という言葉でした。
たしかにその通りです。師匠に惚れて入門したはずなのに、いつの間にか「きついな」「なんで二つ目に昇進させてくれないんだろう」と自分の不勉強さを師匠のせいにしようとしていた時期がありました。
人間、他人のせいにしたほうが絶対楽になれるものです。