現代を生きるわれわれが古典落語から学べることは何か。落語家の立川談慶さんは「『たがや』はまさにSNSのネット民を描いたものだ。安全な場所からでしかモノを言わない大衆がうまく表現されている」という――。

※本稿は、立川談慶『落語を知ったら、悩みが消えた』(三笠書房)の一部を再編集したものです。

隅田川の花火大会
写真=iStock.com/Yuki MIYAKE
※写真はイメージです

両国の川開きの花火見物。両国橋は大勢の人でごった返している。花火が上がるたびに「玉屋~!」と観衆のかけ声が飛ぶ。

そこに、桶のたが(枠)を作る職人・たが屋が通りかかるが、人々に揉まれてあちこち振り回された挙句、道具箱を落としてしまう。その衝撃で中に入っていたたがが弾けて、同じくそこを通りかかった侍の笠を弾き飛ばしてしまう。

たが屋がどんなに謝罪しても、侍は許さない。判官びいきの観衆は「たが屋頑張れ!」の大声援を送る。たが屋はその声に乗り、斬れるものなら斬ってみろと開き直り、共侍二人をやっつけてしまう。観衆は大盛り上がり。「たが屋は俺の親戚!」と言い放つ奴まで出てくるありさま。

とうとう馬上の侍が槍を手に、たが屋を手討ちにしようとするが、その槍をたが屋に摑まれてしまう。すると、侍は槍から手を離して刀で斬りかかる。両者同時に相対したが、結果侍のほうが一枚上手で、たが屋の首が斬られてしまった。 たが屋の首がスパーンと中天に飛び、それを見ていた見物人たちが言う。

「たが屋~!」

「騒げればどっちでもいい」のが大衆

大概は「侍の首が切られて、たが屋~」という形で終わりますが、談志流ですと、たが屋の首が切られる形です。

ずっと「たが屋頑張れ!」と応援していたのにもかかわらず、ラストでたが屋がやられてしまっても一切たが屋に同情することなく、非情にも「たが屋~!」と騒いでいるという“大衆の無責任”として談志は演出していました。

騒げればどっちでもいい。これが大衆なのでしょう。