理想の自分と現実の自分のギャップが嫉妬になる

他人をありのまま認め、自分をありのまま受け入れ、嫉妬は傷つかない程度にし、自分自身も成長できる。嫉妬する心は(意識的であれ、無意識であれ)人と比べるときに起こるもので、比べなければ今日の自分は昨日の自分よりも成長できません。でも嫉妬心にとらわれていると、他人の長所をありのまま受け入れられずひねくれた人になってしまいかねません。この二つの間で、バランスをとりながら努力していくしかないのではないでしょうか。

私が他人に嫉妬する部分は、自分がこうありたいと思う理想的な自分と現実の私の間に存在するギャップだと思っています。社交性とともに、私にないのが無謀さです。

無謀さは、結果を考えないでいいという否定的な意味で解釈される場合もありますが、ときには結果のいかんにかかわらず、思い切って飛び込まないと飛躍できないものです。石橋を叩きすぎていては、疲れてしまいかねません。

誰でも「信頼のジャンプ」が必要な時期があります。自分を信じてくれる誰かを信じて、目をぎゅっとつぶって大きな一歩を踏み出す瞬間のこと。道は見えなかったのに、どこから見ても虚空だったのに、足を踏み出した瞬間、その下に堅固な橋ができている(もちろん虚空の場合もあり)。虚空ばかり見ていると、歩んできた道を振り返ったり、その場所をぐるぐる回ったりするしかありません。

今までの自分を信じ、手を差し出してくれた人を信じ、ときには身近な人の反対も押し切って挑戦するということが私にはほとんどありません。無謀なほどの勇気がないのか、無謀になれるほどの情熱がないのか、私にとってはいつも課題になっている気がします。だから、チャレンジする人を応援したくなる。自分にはできなくても、応援する気持ちに偽りはありません。

「あり得たかもしれない自分」にモヤモヤする

以前、とても条件のよさそうなオファーを断ったことがあります(一度ではなく数回)。10年ほど前に自分が断ったチャンスをつかんで、現在もそのポジションで働いている人に会いました。イベント会場の片隅で、その人が名刺を渡しながら挨拶してくれたのですが、私もその人もかつて同じポジションでオファーを受けたことを覚えていました。

そこで、その人に嫉妬心が湧いたかというと、そうとも言えるし、そうじゃないとも言えます。そのポジションはその人のほうが向いていると(当時も今も)思いました。その人はその場所でベストを尽くしていたのだし、私も自分の場所で一生懸命やってきた。今の私が、心に何かモヤモヤがあるのならそれは私自身の問題であって、自分の置かれた場所でベストを尽くしている他人のせいではありません。