史実に残る「夫婦喧嘩」

宣孝は、まひろが優秀であることを自慢するために、みんなに手紙を見せているという主張だが、まひろはますます納得できず、送った手紙はすべて返してほしい、そうでなければ別れる、とまで言い出す。

そして、自分の体に触れようとする宣孝に「おやめください!」と言い放つ。さらに「難しい女だ。せっかく誉めておるのに。またな」という宣孝に、これまで自分が送った手紙を全部持ってこなければ「お目にかかりません」とまで言い返した。

じつはこの夫婦喧嘩、紫式部が晩年に自分の歌をまとめた『紫式部集』のなかに、2人が結婚してそれほど経たない長保元年(999)正月のエピソードとして登場する。そこにはこう記されている。

「文散らしけりと聞きて、『ありし文ども取り集めておこせずば、返りごと書かじ』と、ことばにてのみ言ひやりたれば、みなおこすとて、いみじく怨じたりければ、正月十日ばかりのことなりけり(私が送った手紙を人に見せていると聞いたので、『これまで送った手紙などをすべて返してもらわなければ、もう返事は書きません』と、手紙で伝えたところ、『すべて返します』と言いながらも、かなりの恨み言を言ってきました。それは正月10日のことで、歌を送りました)」。

紫式部が送ったのは、こんな歌だった。

「閉じたりし 上の薄氷 解けながら さは絶えねとや 山の下水(冬のあいだ氷に閉ざされていた谷川も薄氷が解けるように、夫婦仲も打ち解けていたのに、山に流れる下水が途絶えてしまうように、2人の関係が絶えてもいいのですか)」

言葉の応酬で紫式部に勝てるはずもなく…

史実では手紙を介在していたことが、「光る君へ」では対面でのやり取りとして描かれることが多い。しかし、それはテレビドラマの性質上、仕方ないだろう。ともかく、紫式部の怒りの手紙と歌に対して、宣孝は夜遅くなってから、紫式部から送られた手紙を届けにきて、そこにこんな歌を添えていたという。

「東風に 解くるばかりを 底見ゆる 石間の水は 絶えば絶えなむ(春風で氷が解けるように、私は手紙を返すけれど、貴女には谷川の底が見えるように、石のあいだを流れる水ほどの浅い気持ちしかないなら、2人の関係は絶えてしまったっていいですよ)」

しかし、ドラマのように対面となるとわからないが、言葉の応酬で、宣孝が紫式部にかなうはずもなかった。紫式部は宣孝を軽くあしらうように、こう送った。

「言ひ絶えば さこそは絶えめ なにかその みはらの池を つつしみもせむ(もう手紙も書かないというなら、そうして関係が絶えてしまっても結構です。どうしてそんな『みはらの池』でもないのに、腹を立てる貴方に私が遠慮しなければいけないのでしょうか)」

その結果、宣孝は夜中になって降参し、こんな白旗のような歌を送ってきた。

「たけからぬ 人数なみは わきかへり みはらの池に 立てどかひなし(気が強くなく、人並み以下の私は、湯が沸騰するように『みはらの池』に波を立てたところで、なんにもなりませんので)」