4番目の地位
これらのやり取りを言葉どおりに解釈すると、夫婦のあいだにかなりの緊張が走ったようにも読みとれるが、おそらくそうではない。この当時、貴族の男女間では、「歌」による言葉遊びを重ねながら信頼関係を築くのが一般的だった。
紫式部は、宣孝には夫婦関係を絶やす気持ちなどさらさらないのを知りながら、あえて挑発的にも読める言葉遊びを仕かけ、年の離れた夫に勝利を収めた、ということだろう。
この後、2人のあいだには娘の賢子が誕生する。ただし、その結婚生活は、とりわけ紫式部にとっては、必ずしも心の安寧が得られるものではなかったと思われる。
そもそも紫式部より20歳以上は年長だったと考えられる宣孝には、すでに3人の妻がいて、それぞれとのあいだに子供ももうけていた。したがって、紫式部は嫡妻の地位を得たわけではなかった。
以前、「光る君へ」で藤原道長(柄本佑)から求婚されたまひろは、「妾」では嫌だといって拒絶した。ただ、道長との身分差を考えると、彼と結ばれるためには「妾」になる道しかなかったわけだが、宣孝とのあいだには身分差はない。しかし、紫式部は4番目の地位に甘んじたのである。
だから、結婚したとはいっても、宣孝は3人の妻のうちいずれかの家で暮らしており、紫式部は歌を詠み交わしながら、宣孝が通ってくるのを待つしかなかった。娘が生まれたといっても、父の為時は越前、宣孝は嫡妻のもとにおり、彼らのいない屋敷で育てるほかなかった。
歌にしたためた「夫を待つ身のつらさ」
平安貴族の婚姻形態は、妻問婚、すなわち夫が妻の家に通うスタイルが基本だったと誤解されているところがある。
これはかつての日本史の授業の悪影響も大きいと思うが、実際には、嫡妻であれば、実家に夫と同居するか、最初から夫と独立した家庭をもうけるのが一般的だった。貴族たちが通ったのは、嫡妻以外の妻のもとであった。
藤原道綱母が『蜻蛉日記』に、いつ訪れるともしれない夫を待ちわびる心中を記しているのは、嫡妻と比較したときにわが身のつらさを感じればこそだった。それと同種の感情を紫式部も抱いていたと思われる。
とくに宣孝は、「光る君へ」の第26回でも描かれたように、相変わらずほかの女性にも関心を示し続けたようなので、紫式部の心中は穏やかではなかったのだろう。たとえば、娘が生まれてもあまり通ってこない宣孝に、こんな歌を詠んでいる。
娘を育てながら夫を待ち続ける日々は、やはり常に不安が同居していたに違いない。