だから晩年にF1参戦した

エンジン付自転車は戦前に海外でつくられていて、一部は輸入されていたが、広がりはなかった。バスや電車、金があれば自家用車に乗ればよかったからだ。

戦後、「これからは自動車の時代」と誰もが思ったが、本田の見立ては違った。バスや電車は常に混雑し、ガソリン不足から自動車の運転もままならなかった。自転車が移動手段になっていたが、主婦たちが買い出しに使うには当時の自転車はペダルが重かった。

ガソリン不足が続きそうな現状を踏まえれば、みんなの足になっている自転車の利便性を高めればいい。エンジンをつければ売れるはずだ。

常識を疑い、世論に流されない。そのためには自分の頭で考える。それがバタバタの開発につながった

ここぞと思えば一気に勝負に出る。後の四輪車参入やF1参戦に見られるように、それが本田の金の使い方だった。

本田宗一郎と1963年のフォーミュラ1カーの試作車のホンダ・RA270
本田宗一郎と1963年のフォーミュラ1カーの試作車のホンダ・RA270(写真=Roderick Eime/CC-BY-2.0/Wikimedia Commons

本田の読みは的中し、業者が遠方から買い付けにくるほどだった。バタバタの生産台数は月に200台、300台と右肩上がりになり、最終的には1000台近くまで増えた。ただ本田は満足しなかった。「もっと馬力のあるオートバイをつくりたい」と考え1949年にオートバイ事業に、そしてのちに自動車事業に参入する。

「耳鼻科の先生」として飲み屋に通う

会社が成長しても本田は社長としてではなく、一個人として世の中を観察し続けた。還暦を過ぎても料理屋や飲み屋にひとりで通った。

「僕は、もともと好奇心のある方だから、いろんなものをいじるのが好きだし、いろんなところへ顔を出すようにしている。一杯呑み屋にもよく出かける。それが自分の固定観念をうちこわすには大いに役立っている。(中略)商品である以上、大勢の人が対象だから、みんながどういう欲望をもっているかを見抜かなければ話にならない」

上野の飲み屋では素性を隠して「耳鼻科の先生」として常連になった。当然、会社の仕事の話をするわけもなく、偉ぶることもなかったので女将も信じ切って本田と無駄話に興じていた。なぜ「耳鼻科の医者」だったかというと、「耳鼻科といえば、まず質問される心配が無い」からだという。

ある日、本田が何人かの連れに「社長」と呼ばれ、訝しがっていると、バカ話ばかりする「耳鼻科の先生」が本田宗一郎であることを知らされた。後日、本田のもとに女将から「本田技研の社長さんであることを全く知らず大変失礼な事をした」と丁重な詫び状が届いたというから、いかに本田が相手の属性を問わずフラットに接していたか、遊んでいたかがわかる。