「芸者の話は仕事の話より大事」の意味

いかにして本田はそうした思考にいたったのか。

本田は1906年、静岡県に生まれる。1922年に高等小学校を出ると、東京・湯島の自動車修理工場「アート商会」に勤め、自動車の修理技術を身につけた。28年に故郷・天竜近くの浜松に戻り、アート商会浜松支店を設立する。当初は堅実にお金を貯めようとしていたが、芸者遊びが止まらなくなる。

「収入がふえてくるとそれだけに遊びも激しくなり、金をためようという気などはどこかへ行ってしまった」

時代が時代である。お金があれば芸者遊びも珍しくないが本田の場合は度が過ぎていた。

アート商会を経営していたころの有名なエピソードがある。

宴席で芸者の言動に腹を立てた本田はその芸者を料亭の2階から外に放り出してしまう。奇跡的に途中の電線に引っかかったため、生命に別条はなかったが、本田は「危うく殺人罪になるところだった」と述懐している。また、飲酒運転で橋げたに突っ込んで芸者と一緒に川に落ちたこともあった。

夜の京都
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「とんでもない男だ」と非難する人もいそうだが、注意しなければいけないのは、本田は芸者を軽んじていたわけではない。むしろ逆だ。

宴席で芸者そっちのけで仕事の話をしていた部下を翌日呼び出し、「芸者の話は仕事の話より大事だろ」と雷をおとしたこともある。どんなときでも相手に寄り添い、耳を傾ける。当然、芸者にもモテた。

突然、1年間仕事をしない宣言

本田はのちにこのころの遊びが自分の商売人としてのベースを形成したと語っている。

「花柳界に出入りしていると、人の気持ちの裏街道もわかってくるし、いわゆるほれた、はれたの真ん中だから、人情の機微というものも知ることができる。私がただまじめ一方の技術屋とはいささか違うところを持っているとすれば、こんなところに元があるといえそうだ」

戦前に修理業が軌道に乗ると、エンジン部品のピストンリングの製造に乗り出し、成功を収めた。納入先はトヨタだった。経営は安定していたが、戦争が終わると会社を売り払ってしまう。

本田はその理由を「戦時中だったから小じゅうと(舅)的なトヨタの言うことを聞いていたが、戦争が終わったのだからこんどは自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったからである」と振り返っている。

そこから、ホンダのサクセスストーリーが始まるかと思いきや、ホンダの前身となる「本田技術研究所」という名で個人事業を始めるのは1946年の9月。ピストンリング製造会社の株を売却してから、1年余りの時間があるのだ。

何をしていたのか。何もしなかった。ただひたすらぶらぶらと遊んでいた。45年9月に「仕事はしない、1年間、遊んで暮らすから、食べさせて」と妻のさちに言った。時に本田宗一郎38歳、不惑手前の妻子持ちとは思えない発言である。