決して「敗戦ボケ」ではない

「会社を売ったのならば金があるし、生活に困らなかったのでは」と思うかもしれないがそれは違う。株の売却額は45万円(現在の価値で1億円以上)だったが、本田は「これは大切なお金だから、つかっちゃいかん」と全く手を付けなかった。

妻のさちは生活費を貰えなかったので、自宅敷地で野菜をつくり、米は自分の実家から調達した。一方の、本田はドラム缶入りの医療用アルコールを買い、自家用の合成酒を作って友人と飲み、昼は尺八のけいこや将棋に励んだ。といっても、1日は長い。やることがなければ、軒下で1日中座り、何もせずにぼんやりしていた。

縁側で昼寝をする猫と少女
写真=iStock.com/Hakase_
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本田は仕事が嫌になったわけではなかった。世間の急激な変化に何も考えずに身をまかせることができなかったのだ。1年間のぶらぶら遊びは世の中の変化を考えるための期間だった。

「女房らは、私が遊んでばかりいていつまでたっても本気で事業にとりかからないのを見て心配しはじめた。私が敗戦ボケでふ抜けになってしまったのではないかと思ったらしい」と語っている。

環境を変えることで新たな視点が生まれ、何かを思いつくことはある。

どうやって新しい技術を生み出したのか

技術が先にあるのではなく、人を知ることで必要な技術がうまれ、ものがうまれる。そうした本田ならではの観察眼をいかして、戦後の混乱の中で生み出した製品が「バタバタ」の愛称で知られるエンジン付き自転車だ。

ホンダといえば戦後にオートバイの成功で会社を一気に大きくしたイメージがあるかもしれないが、「エンジンのホンダ」の原点はバタバタである。ここに目をつけたのが生活者の視点をもった本田らしい。

きっかけはたまたまだった。友人の家に遊びに行った際に転がっていた旧陸軍の無線機発電用のエンジンを見て、アイデアを思いつく。そういえば、妻も自転車で買い物に行くのに苦労していたな。これを自転車につければいいと。

軍用の使われていないエンジンは敗戦に伴い用途がなく、そこらへんに余っていた。エンジンをいじるのはお手の物だ。問題はお金だ。会社の売却益はあったが、当時は超インフレの環境下にあった。日銀の卸売物価指数によるとインフレ率は終戦から1年で約5倍、2年で約16倍、5年で70倍を超えた。

お金の価値がみるみる減っていくわけだから、手元の資金だけでは十分でなかった。父親が所有していた山林を売り払って、事業に踏み切った。