力道山のはからいでひばりと服部良一は和解したが…
後年の話だが、ひばりによると、彼女は力道山と親しくしていた。プロレス界のスーパースター力道山がひばりの大ファンで、ひばり母娘にリングサイドの席をとったりしていた。
あるとき、そのへんの事情を知っている力道山は、彼が主催のパーティーで、わざと服部の席の前にひばり母娘の席を設けた。
それを目にしたひばりは「仰天して、逃げ出そうとしました」と回顧している。たいして力道山は、しらばっくれて「どうしたんだ」とひばりに聞いている。
そのやり取りを昭和46年(1971)刊行の『ひばり自伝』では、次のように書いている。
「リキさん。わるいけど、あたし帰るわ」
「席か?」
「ええ」
「何馬鹿なことを言ってるんだ」
「だって……困るもの」
「そんなこと言わないでこい。おれにまかせておけ。責任持つから」
そういうと力道山は、ホールで踊っている服部にひばりを引き合わせた。
すると服部は踊りながらひばりに「あれはおれの意志でしたことではない。わかってくれ」と謝ったそうである。ひばりは、これが服部との和解と自分を納得させた。
ひばりも大スターになったが、笠置とは仲直りできなかった
しかし、笠置に対しては、すでに押しも押されもしない大スターになったひばりは、「笠置さんと、そんなことで、仲直りできないままですが」と、記すのみである。
いっぽう笠置にしてみれば、そんなひばりの気持ちは心外だったに違いない。笠置は雑誌などでも、ひばりとのことを直接、語ることはなかった。ひばりへの本心をもう知るすべはない。
まあ、子ども時代のひばりは人気者だが、孤立無援でもあった。だからこそ頼るべき人物は母の喜美枝しかいなかった。
詩人のサトウハチローからは、笠置のものまねで人気を得たひばりへ「ゲテモノを倒せ」などという物騒なアジ文まがいの攻撃をされていた。
「そういうゲテモノは皆が見に行かなければ、自然とほろびるではないか。だから見に行くな。そんなものをはびこらせておくことは芸能界として、大先輩のこの両者(笠置シヅ子・服部良一)に対して申しわけないことだ」
まだ12歳ほどの子どもにとって、サトウハチローの無神経な文章はつらいものがあっただろう。
こういう背景もあって、笠置が与り知らぬこととはいえ、ひばりは彼女に対して、いつからか平静をよそおえなかったのかもしれない。これは両者にとって、不幸なことであった。