「ひばり自伝」に書かれているが、事実という確証はない
――と、筆者は昭和46年(1971)刊の『ひばり自伝』に即して、以上のエピソードを紹介したが、どうやらこれは確証のもてる話とはいえないようだ。なにしろひばりは、当時(昭和24年1月)まだ11歳である。この出来事にしても、ひばり本人が笠置から直接、電話を受けたわけでもない。人気絶頂期の笠置自身が、ひばりが日劇で何を歌うかまでチェックするとは考えにくい。
「ヘイヘイブギー」に関する申し入れが、ひばりサイドにいったとしても、それは笠置側の関係者の誰かがしたことではないか。たとえば笠置のマネージャーとか興行関係者……などと考えるのが自然であろう。
「いじめ」と呼ばれる話は、こういった一連の顚末が、関係者の口から世間に伝わったのではないか。『ひばり自伝』も一役買っているということか。
だから、笠置はひばりを毛嫌いしているとか、いじめたなどというイメージの一因になったのであろう。
いくら人のよい笠置でも、こんな話が世間にひろまれば、一度くらいは反論するはずだが、調べた限りそんな形跡はない。
笠置本人にしてみれば身に覚えのない話だから、気にもならなかったはずである。
たしかに当時、持ち歌が一つもなかったひばりにとっては、困惑する出来事だったため、話がいたずらに大きくなった気がする。笠置は裏も表もない性格なので、迷惑極まりない話に違いない。
この一件に関しては、「ヘイヘイブギー」の歌詞のように「あなたが笑えば私も笑うヘイヘイ」とはいかなかったのである。
昭和25年のアメリカ公演でもひばりに楽曲の使用禁止命令が
米軍占領下ではあったが昭和25年(1950)にもなると、日本人の渡米が目立つようになってきた。政治家、文化人、芸能人がその流れにいた。美空ひばりや笠置シヅ子もその中のひとりだった。
ひばりは、日系二世部隊の記念塔建設資金募集の名目で、昭和25年5月にハワイやアメリカ本土で公演を予定していた。
翌6月には、笠置や服部良一などの一行も4カ月をかけて、アメリカ興行を実施する手はずとなっていた。そこにはおそらく、見聞をひろめたり観光の要素もあったようだ。
二つの公演がクロスすることになったが、ひばりの渡米公演に重大な問題が降りかかってきた。ひばりサイドに「服部良一の全作品を歌っても演奏してもならない」と、日本音楽著作権協会から通知状が送られてきたのである。