なぜ、現代社会を生きるのがしんどいのか

ポスト資本主義の前に、まず今の「しんどい」社会はどういったシステムなのか考えてみましょう。

私たちが生きる先進国の現代社会は、資本主義が社会のOS(基本システム)のようになっています。この社会を論じるときの一つのポイントが、「唯物論・進化史観・弁証法」です。

急に哲学的な言葉が三つも出てきましたが、焦らないでください。一つずつ説明しますね。

唯物論(※)とは文字通り「ただ、物だけがある」という意味です。現代社会はまさに、この唯物論で回っていると言っても過言ではありません。というのも、定量的に観測できるもの、つまり数値化できるものだけで社会が設計されているからです。

たとえば、企業活動を見てみましょう。バランスシート(貸借対照表)には数値で表せるものだけが記載されます。最近では従業員満足度などを調査することもありますが、企業を評価する公の指標にはなっていません。これはまさしく唯物論です。

この唯物論とともにあるのが、進化史観です。新しく生まれるものは古くから存在したものより良くなっていく、進化していくはずだという考え方です。そして、この進化史観に基づく思考法として、西洋哲学に特徴的な弁証法があります。

弁証法とは、対立するAとBがあるとき、それがぶつかり統合されることで、さらなる高みへ進み、それを繰り返すことで究極の真理へ進むという概念です。

18世紀の哲学者ヘーゲルによって定式化されました。現代の資本主義はこれら西洋由来の世界観を背骨に、社会のOSとして機能しています。

絶対的勝者が決まるまで、永遠に「闘争」が続く

ところで、唯物論をベースにして社会を考えると、心の問題は「ない」ことになります。物質的に満たされれば心も幸せになるはず、という思想だからです。

しかし実際には「出世して給料が上がった。地位も上がった。けれどむしろストレスが増えた……」という人が山ほどいます。

進化史観は、われわれに「向上する」ことを強いてきます。心地よい状態にとどまることは否定されがちで、より良き状態への進化を求められます。その「良き状態」は幻想かもしれないのに、目に見える結果が常に必要とされるのです。

そして弁証法は、永遠の「闘争」を生み続けます。対立概念の併存は認められず、どちらか「正しいほう」の選択か、第三の道へ「進化」するしかありません。絶対的勝者が決まるまで、「闘争」は続いてしまうのです。

しかし、そのような「絶対的な何か」はあり得るのでしょうか、「個人の心」は無視していいのでしょうか。敗者は淘汰されるべきでしょうか。一神教的な宗教としては「あり」かもしれませんが、人類のOSとしてはどうなのでしょう。

このような社会では、しんどいのは当然のことかもしれません。