源頼朝や徳川家康など、「日本の偉人の墓」は全国に点在している。なぜ1カ所ではないのか。仏教研究家の瓜生中さんは「日本は遺体と霊を分ける『両墓制』のため、霊をまつる廟所は複数設けるのが一般的だったからだ」という――。

※本稿は、瓜生中『教養としての「日本人論」』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。

僧侶
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仏壇のない家、仏壇の意味を知らない人が増えている

最近、特に都市部では仏壇がない家庭も多い。これは昭和30年代の高度経済成長の時代に郷里を離れて都会に移り住む人が急増し、田舎の実家には仏壇があるのでわざわざ都会の転居先にまで仏壇を持たない人が増えたことと、マンションなどに住む人が多くなって仏壇を置くスペースがなくなったことも原因と考えられる。

そして、都会で新たな生活をはじめた人たちは親との交渉も少なくなり、したがって先祖とのつながりも希薄になっていった。今は東京や大阪などの大都市では都会進出組の2世、3世、あるいは、4世が一家を構えている。だから、仏壇の意味が分からない人も少なくないようである。

推古天皇の時代からあった「仏壇の一種」

日本書紀』の朱鳥元年(686)の条には天武天皇が国ごとに仏舎を作って仏像をまつり経典を読誦せよとの勅令を発したと記されている。この「仏舎」は仏像を納める厨子の役割をしたようで、後に普及した先祖の霊を納める仏壇とは異なると考えられている。恐らく当時の豪族などの富裕な家に仏舎がそなえられたものと思われる。

また、それより早く推古天皇の時代(在位592~628)には法隆寺の玉虫厨子(飛鳥時代、国宝)が作られたとされている。これは推古天皇の念持仏(個人的に礼拝するための仏像)を納めたものである。

玉虫厨子
玉虫厨子(写真=法隆寺所蔵/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

また、同じく法隆寺には橘夫人念持仏厨子というものがあり、橘夫人の念持仏の阿弥陀三尊像が納められている。橘夫人は藤原不比等の妻で、聖武天皇のきさきの光明皇后の母である。これらも仏壇の一種と考えられているが、後に一般的になった仏壇のように先祖の霊をおさめるのではなく、あくまでも仏像をおさめる厨子だったと考えられている。