3人の天皇の外祖父になった道長
父を範として、権力をさらに強固にしたのが道長だった。もっとも、いきなり外祖父になったわけではない。当初は右大臣(のちに左大臣)および、太政官から天皇へ奏上する文書など一切を先に見て意見をいう「内覧」として最高権力を維持しながら、姉である詮子の息子、つまり甥にあたる一条天皇のもとに娘の彰子を入内させ、時機を待った。
そして、彰子が産んだ敦成親王を長和5年(1016)に即位させ(後一条天皇)、ようやく外祖父としての摂政になる。それに当たっては、対立関係にあった三条天皇を、眼病を理由に強引に退位させている。また道長は、そんな三条天皇のもとにも次女の姸子を入内させていたから複雑だ。
その翌年には、嫡男の頼道に摂政を譲って出家するが、実権は握り続けた。そして、寛仁2年(1018)には、孫である後一条天皇のもとに三女の威子を嫁がせ、3人の娘を天皇の后にすることに成功した(一家立三后)。さらには六女の嬉子も、彰子の子でのちに後朱雀天皇になる敦良親王に入内しているから(嬉子は親王の即位前に死去)、一家立四后ともいえる。
また、道長の死後にも、彰子の子である後朱雀天皇、嬉子の子である後冷泉天皇が即位したので、道長は3人の天皇の外祖父になったことになる。
天皇ではない権力者の存在は悪なのか
さて、ここまで記した経緯から、摂関政治が天皇親政の邪魔をしてきたことは、明らかだというほかない。天皇の外戚、それもできることなら外祖父になって権力を握る――。藤原北家はそれをめざして、実質的に保持する権力の大きさは、天皇のそれをはるかに超えてしまった。
ただし問題は、それがネガティブに評価されるべきものかどうか、ということだ。関幸彦氏は、それについて以下のように記している。
「天皇の幼少化が政治権力との遊離を招き、外戚が権力の中枢へと進出、摂関による政治システムの広がりに至る。三条天皇が道長と対抗した背景にあるのは、摂関システムが外戚との関係性のなかで、“成年”天皇を排する傾向を背負っていたからだ。かりに“成年”だとしても“物言わぬ天子”こそが待望されたからに他なるまい。“物言わぬ天子”の登場は、代替機能を有した他者(摂関)の政治請負化を進行させる」(『藤原道長と紫式部』朝日新書)
少々わかりにくい表現だが、要は、藤原北家が摂関として権力を握るためには、天皇は幼少であるほうが都合はよく、幼少の天皇は判断力もないので、摂関が政治を請け負うようになった、ということだ。
これを関氏は「天皇自身の文化的存在への転換」とも記す。すなわち、道長らが天皇を、権力を行使する存在から文化的な存在、言い換えれば象徴的な存在へと棚上げした、ということである。
以来、天皇は事実上の権力者に権威をさずける名目上の統治者として、今日にいたるまで存続することになった。