一晩で57曲歌ったという淡谷に「それはできない」と笠置

毎日のように公演を続けてなんぼという昭和の歌謡界で、女性が舞台の数をこなしていくのには、やはり相当の体力が必要だったようだ。一晩のリサイタルで57曲歌ったことがあるという淡谷に、笠置は驚いて、こう話している。

笠置「それはわたしたちにはできない。(編集部註:ブギというパワフルな)歌の性質からいって――」
淡谷「それは笠置さんみたいにして歌ったらとてもとても――」
笠置「ところがわたしもこのごろ強くなったらしい。この間も有楽座へエノケン(編集部註:タナケンのモデルである榎本健一)さんと一緒に出て、あれだけ地声でセリフやって、一時間ぐらい出たら出ずっ張り。それでおしゃべりと歌、あれにはとうとう調子はずすかと思ったが、平気でした」
(『婦人公論』1949年11月号)

続けて笠置は、一番ハードなのは映画の撮影であり、舞台のように大きい声を出してはいけないし、かと言って、普段の自分は大声で話さないので、映画で出す声のボリュームを工夫していると語っている。それに対して、『ブギウギ』の対談シーンのように、淡谷が笠置の女優活動を「歌に集中していない」と批判した様子はない。

笠置は淡谷の持ち歌「別れのブルース」を歌いたくて嫉妬

「東京夕刊」(1994年4月15日)の「[うたものがたり]雨のブルース」では、こんな記述がある。

「まだ『キャピキャピ』のころ、『姉さん、緊張するんだ。ちょっと胸を見せてくれ』。ディック・ミネと灰田勝彦が真剣な顔で言ってきた。『しようがないわね』。淡谷さんが豊満な乳房をぽろりと出すと、二人はうれしそうな顔でステージに上がっていった」

一方、笠置は「別れのブルース」を歌いたくて淡谷に嫉妬していたそうで、あるとき、「だれか、うちの背中流しーや」と楽屋の風呂で若手に命じたところ、その声を聞いた淡谷がそっと近づき、その背中を流していると、笠置が振り返り、「嫌やわ! 淡谷センセッ!」と慌てたというエピソードも記されている。

「淡谷のり子の世界 〜別れのブルース〜」℗ Nippon Columbia Co., Ltd./NIPPONOPHONE

「ブルースの女王」と呼ばれた淡谷と、「ブギの女王」となった笠置はライバルとも見られていたが、淡谷は服部良一と同じ年齢で、7歳上。笠置にとって親友というよりも、大先輩に近い存在だったのではないか。

笠置は1950年代、歌手に限界を感じて女優にシフトし、お茶の間のテレビでも親しみあるお母さん的存在として人気を博した。淡谷もテレビには出ていたが、92歳で死ぬ数年前までマイクの前に立ち、生涯、歌手一本を貫いた。

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