正しい結論なんて出ていない
もし、もっとちゃんとやれば正しい結論が出るということなら、どうして国会で決めた法律があんなにポンコツになるのだろう(もちろん良くできた法律もあるけど)? どうしてちゃんと話し合ったはずなのに、コロナ禍において神宮球場に野球ファンが3万人も入っているのに、小学校の給食の時間に「黙食じゃなきゃダメ!」って注意されて子供たちが食欲を失うみたいなことになったのだろう? 本当に、黙食がもたらす結果をちゃんと議論したのだろうか? したのなら、どうしてある県の小学校ではマスク外して卒業式とかやっているのに、他の多くの地域では相変わらずつい立てに隠れて子供たちが給食を食べていたんだろう?
ちゃんと話し合っても、正しい結論なんて出ていないじゃないか?
そんなふうに考えたくなってくる。そして、そういう気持ちになるのは無理もないのだ。
なぜならば、僕たちが話し合いや議論をする目的は、「正しい結論を出す」ことではないからだ。
もう一度言う。
僕たちが議論をする目的は、「正しい結論を出すため」ではない。
それじゃ、いったい何のために、あんな面倒くさいことをやるのだろうか?
もちろん、ちゃんと議論や話し合いをすれば、「正しい結論」に近づく可能性は高まる「かも」しれない。しかし、必ずそうなるという保証はない。もし何かの意味で「正しい」結論が出たとしたら(この意味は人によってそれぞれだ)、それはじつに有難いことだ(この有難いは、「感謝する」と言う意味じゃなくて、「そうそうないこと」という意味だ)。幸運だ。偶然だ。ひょうたんから駒だ。つまり、かけた時間に比例して、出てくる結論の水準が上がるという法則はないということだ。時間をかけてしまったために、にっちもさっちもいかない泥沼にはまり込むことだってあるのだから。
交通整理をする
僕たちが議論をする目的の一つは、まずは交通整理をすることだ。あらゆる種類の動くもの(大型トラック、普通車、オートバイ、自転車、歩行者など)が、バーっと交差点に来たら、渋滞や衝突など、もう目も当てられない事態となるから、東西南北行きたい方向を順序よく振り分けて、進めるレーンと待っているレーンとを信号で分けて、歩く人と車の人と自転車通行の人のレーンを指定する。
同じように、心根はさほど悪くはないけど、どうしても無意識の自己チューになってしまう人間が集まるのだから思惑もそれぞれで、学園祭でやりたいことも、理由はまちまちだ。「リュウタといっしょに焼きそばつくりたい」という恋心からはじまって、「相鉄の20000系車両の美しさをどうしても人々に知らせたい」まで、そして「盛り上がりたい」から、「適当に協力するふりしてやり過ごしたい」まで、じつにみんなの事情は異なっている。