平安時代の貴族で、政治の実権を握っていた藤原道長が詠んだ「此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば」という和歌はよく知られている。京都先端科学大学人文学部の山本淳子教授は「『我が世とぞ思ふ』は『この世は私のものだ』という意味ではない。『望月』という言葉には2つの意味がある」という――。
※本稿は、山本淳子『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか』(朝日新聞出版)の一部を再編集したものです。
「ブラックホール」と化した後宮サロン
寛仁二(1018)年正月、後一条天皇は11歳で元服し、道長の正妻・倫子腹三女でしばらく尚侍を務めていた威子が、三月に華々しく入内して翌月には女御となった。すると、その女房(后妃を盛り上げる知的・美的スタッフ)の一人として倫子が目を付けたのが、道長の亡くなった次兄・道兼の娘だった。
この頃、道長の娘たちの後宮サロンは、上流貴族の娘たちを女房として吸い上げる〈ブラックホール〉の様相を呈し始めていた。
早くは寛弘年間(1004〜12)、故一条太政大臣・藤原為光の四女でかつて花山院(968〜1008)の寵愛を受けた姫君が道長の姫たちの遊び相手として出仕させられ、また故藤原伊周の娘が彰子に仕えた(『栄花物語』巻八)。長和年間(1012〜17)には為光四女のすぐ下の妹や中関白道隆の娘が妍子に仕える女房となった。
大蔵卿・藤原正光の娘は、父が健在なのに出仕した(同、巻十一)。『栄花物語』はこう記す。
すべてこのごろのことには「さべき人の妻子みな宮仕に出ではてぬ。籠りゐたるは、おぼろげのきず、片端づきたらん」とぞ言ふめる。さてもあさましき世なりや。
(およそ近頃は「しかるべき上流貴族の妻子は、皆が道長家の姫君の女房となり尽くした。家に籠っているのは、明らかな欠点があるか体の悪い者だろう」という噂だ。何とも驚く時代になったものよ)
(『栄花物語』巻十一)
(およそ近頃は「しかるべき上流貴族の妻子は、皆が道長家の姫君の女房となり尽くした。家に籠っているのは、明らかな欠点があるか体の悪い者だろう」という噂だ。何とも驚く時代になったものよ)
(『栄花物語』巻十一)