姫君を吸い上げることで野心を削いでいった

彼女たちは姫君に狙いをつけると、その母などに消息しょうそく(手紙)を「せちに(熱心に)」「たびたび(何度も)」送りつけて出仕を要請し、断られても決して折れることなく、結局は意志を通した。

こうして道長の妻と今上天皇の母が上流貴族の姫君を吸い上げることは、上流貴族を脅かし、娘を入内させて道長家に対抗しようという野心を阻喪そそうさせた。結果的に、後一条天皇の后妃は彼が崩御するまでたった一人、威子だけだった。

実は、道長にとって彰子はだんだん煙たい存在になりつつあった。今や彼女は、今上・後一条天皇と春宮・敦良親王を擁する「天下第一の母」(『大鏡』「道長」)である。道長の開く宴会が貴族らを疲弊させていた時は「父上のいない所では、皆嫌がって後ろ指をさしていますよ。ましてご薨去こうきょ後はどう言われるか」とビシッとたしなめ、道長が「心神よろしからず(気分が悪い)」とふてくされたこともあった(『小右記』長和二〈1013〉年二月二十五日)。

日本風巻物
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道長の娘たちが朝廷のトップに上り詰める

道長が見るより遠い将来と広い世間を、娘は見つめ始めていた。ところが、寛仁二(1018)年秋のことである。早朝、道長と摂政・頼通を御前に呼ぶと、彰子は言った。

「尚侍立后りっこうすべき事、早々たるをきちとすべし」てへり。、申してはく、「宮の御座おはしますを、恐れ申し侍り」と。れを以ていまくのごとき事を申さざるなり。また仰せられて云はく、「更に然るべき事にあらず、同様のこと有るを以て、慶び思ふべきなり」と。摂政申して云はく「早く日を定めらるべし」てへれば、慶びのよしを申して退下たいげす。
(「尚侍〈女御・威子〉の立后りっこうは、早くしたほうがよろしいでしょう」。私は申した。「太皇太后たいこうたいごう様も妍子中宮様もいらっしゃるのに、立后などと申すのははばかられます」。だから私はいまだにこの提案をしていなかったのだ。太皇太后はまた、おっしゃった。「全く憚ることはございません。前例もあるのですから、慶ばしく思うべきでしょう」。摂政〈頼通〉が申した。「早く日程を決めましょう」。私はお礼を申して退出した)
(『御堂関白記』寛仁二年七月二十八日)

この時、きさきは、最高位の太皇太后が彰子、次の皇太后が空席で、皇后と中宮にそれぞれ娍子と妍子がいた。彰子は空席の皇太后に妍子を転上てんじょうさせ、空く中宮に威子を立てようというのである。すると、四人のうち三人が道長の娘となる。これは空前の事態だ。「そこまではいくら何でも」と遠慮して、道長は言い出せずにいたのだ。

まさに望外、しかし喉から手が出るほど憧れた状況だ。