そして前人未踏の権威を確立した
ところがそれを彰子が自分から言い出して成就させてくれるというのだ。日記の記す彰子は堂々としている。頼通は坊ちゃんらしく、事の重大さをあまり分かっていないようで、いそいそとしている。そして道長は、いささか茫然としている。
彰子は前例のあることと言ったが、『栄花物語』は「一人の大臣の娘が二人后に立った例はない」(巻十四)と記している。確かにその通りで、実は前例では、娘たちが后として並び立ったのは父大臣の死後だった。道長は、自分の存命中に彰子と妍子の二人を后にしただけでも、史上初めてだったのだ。それが今度は、三人になる。まさにこれは「未曽有」(『小右記』寛仁二年十月十六日)の事だった。
誰も手の届かなかった場所に達した道長。彼の「この世」を『栄花物語』は讃える。
(こうして后に娘三人が立たれることを、まさに稀有なこととして、道長殿のご幸運、この世の運命は最強のものとお見えになる)
(『栄花物語』巻十四)
立后の日程は、安倍晴明の息子である陰陽師・吉平に占わせ、十月十六日となった。この威子立后の夜こそが、道長が彼の代名詞となる和歌を詠んだ月夜だった。
和歌を詠んだ夜は満月ではなかった
だが、当夜は誰もが想像する望月の夜ではない。十六日の夜――月は十六夜の月で、少し欠けていた。当日の子細は、道長の『御堂関白記』よりも実資の日記『小右記』に詳しい。道長が和歌を詠んだのは、内裏の紫宸殿で立后の儀式が行われた後、場を道長の土御門殿に移しての宴でのことだった。
前々年七月の火災で灰燼に帰した土御門殿はこの六月に新造され、前より高く聳える屋根など、すべて道長の指示通りに輝かしく造り替えられていた(『小右記』寛仁二年六月二十日・『栄花物語』巻十四)。
宴がやがて寛いだ二次会となると、音楽が奏でられるなか、道長は大納言の実資に戯れるように言った。「我が子に盃を勧めてくれんか?」。我が子とは、摂政・頼通である。実資は頼通の盃に酒を注ぎ、頼通は左大臣・顕光に、顕光は道長に、そして道長は右大臣・藤原公季に注いだ。この五人こそが、現政権の頂点に立つ者たちである。