老いを受け入れるのは簡単ではない

老人デイケアのクリニックに勤務していたとき、利用者さんのテーブルをまわって順番に、「調子はどうですか」と聞いていました。「大丈夫です」と言う人もいましたが、大半は何らかの症状を訴えます。

「腰が痛いんです。3日ほど前から痛くてたまりません」
「なんや息をするのがしんどくて」
「足がむくんで抜けるようにだるいんです」
「目ヤニが出て、耳からも耳だれが出て」
「便が硬くて、力むと脳の血管が破れそうで」
「オシッコのにおいがきつくて」
「夜になかなか寝つけんで、寝たと思うたらお便所に行きとうなって」

40人ほどの高齢者の苦しみを聞いてまわるのは、かなりのハードワークでした。なにしろ簡単には治らないことばかりなのですから。しかし、これらの訴えは年を取ればある程度予測可能なものばかりです。頭でわかっていても、自分のこととしては受け入れがたいのでしょう。

頭を抱える高齢者
写真=iStock.com/byryo
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人はだれでも、年を取れば足が弱るし、手がしびれて、息切れがして、身体が動きにくくなり、眠れなくなったり、尿が出にくくなるのに夜はトイレが近くなったり、お腹が張るのにガスは出ず、出なくていい痰や目ヤニやよだれが出て、膝の痛みに腰の痛み、嚥下えんげ機能、消化機能、代謝機能も落ちたりして、身体が弱るものです。そうなるのが自然なのに、それを受け入れるのは簡単ではありません。

老いるということは、失うことだとも言われます。体力を失い、能力を失い、美貌を失い、余裕を失い、仕事を失い、出番を失い、地位と役割を失い、居場所を失い、楽しみを失い、生きている意味を失う。

そんな過酷な老いを受け入れ、落ち着いた気持ちですごすためには、相当な心の準備が必要です。

優秀な人ほど“老い”に立ち向かってしまう

若いときから優秀だった人は、人生で得たものが多い分、失うつらさにも耐えなければなりません。仕事で高い地位についていた人は、リタイアしてふつうの人になることに抵抗があるでしょうし、頭がいいと言われていた人は、記憶力や計算力が衰え、言いまちがい、勘ちがいなどを指摘されると腹が立ち、逆にショックを受けたり、落ち込んだりします。

もともとさほど優秀でない人は、リタイアしても同じですし、記憶力の衰えなどもたいして気にはなりません。健康に気をつけて、どこも悪いところがなかった人も、老化現象による不具合には耐えるのがたいへんです。若いときから具合の悪い人のほうが、慣れている分、年を取ればこんなものだと受け入れやすいでしょう。

私より8歳年長の知人は、高学歴で社会的地位も高い職業に就いていましたが、老いを受け入れることができずに苦しんでいます。76歳にもなれば、衰えて当然だと思うのですが、なんとか若いときの状態を維持しようと頑張っています。

これまで大きな挫折の経験がなく、逆に努力によって困難を克服してきた成功体験があるので、老いにも努力で立ち向かおうとするのです。当然、心は安らかではありません。「いい加減にあきらめたら」と奥さんに言われても、頑としてあきらめません。あきらめたら終わりだ、敗北主義だと頑張るのです。