生命に大事なものがすべて揃っている
なぜ、人間は小流域の谷が好きなのか。なぜ、高低差があって、谷の奥には湧水があって、水が流れて池となり、その向こうに川や湖や海がある地形が好きなのか。
理由は明白だ。小流域源流は、生き物としての人間がサバイバルするために必要不可欠なものがまとめてパッケージされている地形だからである。
源流の湧水からはきれいな水が永遠に手に入る。飲み水に事欠かない。
源流部のてっぺんは分水嶺=尾根あるいは台地である。その地域でいちばん標高が高く、地盤がしっかりしていて、洪水に遭う心配もない。家を建てるのには最高の場所だ。尾根沿いは、水はけがいいから道をつくるのにも適している。移動も楽である。
湧水から出た流れを活用して谷地形を棚田にすれば、容易に耕作が可能となる。ため池をつくることもできる。農業にいちばん欠かせないのは水だ。ここならいくらでも手に入る。
水には動物や鳥が集まるから狩りも気軽にできる。水中には魚やカニやエビもいる。動物性タンパク質をすぐに摂取できる。耕作に使う牛、運搬や移動や戦争に使う馬。大量の飲み水が必要だが水源があるので心配ない。河口には干潟ができる。海の幸が取り放題だ。
だから武蔵野台地に「古い野生」が残った
海や大河や湖につながっていれば、船を使った交易もできる。小流域源流部は、アフリカで人類が誕生してからこっち現在に至るまで最上の住処になる。だから日本全国どこでも小流域源流の地形からは旧石器、縄文、弥生、古墳時代の遺跡が見つかることが多い。
中世の城の多くは、小流域源流部の地形を利用して、尾根筋に城を建て、水の流れを利用して堀をつくり、馬を飼い、船を活用した。
東京の面積の大半を占める武蔵野台地には、小流域地形がフラクタルに展開している。神田川や石神井川、渋谷川、目黒川といった中小河川が湧水から生まれ、河川流域の地形をつくる。
台地を削り、削ったところから新たな湧水が出て、さらに小さな流域地形を形成する。こうしてできた数多くの小流域源流部をそれぞれの時代の権力者が我が物にし、城を建て、屋敷をつくり、神社や寺社などの宗教施設を置いた。
江戸時代に政治が安定すると、江戸=東京の小流域源流の多くは、有力大名の中屋敷や下屋敷、将軍の鷹狩りの御料地、神社仏閣、墓地になった。
湧水の水の流れは堰き止められて池となり、周辺には築山が築かれ、ウィルソンのバイオフィリア仮説を証明するような「小流域源流の地形」に見立てた庭園ができた。勝手に開発できないから、「古い野生」が温存された。