人の心は、バケツに入れた汚水のようなもの

「人間の心は、バケツに入れた汚水のようなものだ」と言った人がいました。

なぜ汚水なのかといえば、私たちの心の中には、ネガティブなものがたくさんあるから。そして物事を悪い方向に考える人は、何か問題が起きると、心を乱してこの汚水をかき混ぜてしまうのです。

そのせいで水はドロドロに濁ってしまい、光を通さなくなります。それでは見通しが利きませんから、いい解決策が見つからないわけです。

草むらにある泥水でいっぱいの金属バケツ
写真=iStock.com/Nadya So
※写真はイメージです

物事を悪いほうに考える人は、過去の悪いことも次々と思い出しています。

それは、まるで海底火山のマグマのように、嫌な気持ちをふつふつと噴き上げて水を濁らせている状態なので、気持ちが落ち着くことはありません。飲みに行っても、散歩に行っても、夜ベッドに入っても、いつまでも心は濁り続けたままで先が見通せることはなく、問題は解決されません。

バケツの水に混じった泥は、嫌なことに目を向けずに、しばらく待っていれば、やがて底へ沈み、水はだんだん澄んでいきます。いったん立ち止まって気持ちを落ち着かせれば、視界が開けて解決策は見つかるということです。

ただし、単に放っておいても、人の意識はネガティブなものに向きがちです。ポジティブな面を見ようとすることで、ほどなく心は静寂をとり戻すでしょう。

ポジティブ6、ネガティブ4で上出来

仏教では、私たちの心は本来、仏のように清らかだと教えています。

先に言葉を紹介した、天龍寺を開山した夢窓疎石が詠んだとされる道歌に次のようなものがあります。

雲晴れて 後の光と思うなよ もとより空に 有明の月

雲が晴れたから、今、月明かりが差したのではない。もともと月の光はあったのだが、それが雲でさえぎられていたから闇になっていただけだ……そんな意味です。

つまり、起こった出来事は、悪いことでもなんでもない。あるいは、どんな人も悪人ではなく、いい心を持っている。ただ、私たちの心の曇りが起こった出来事について「最悪だ」と思わせ、出会った人を悪く評価させてしまうということです。

仏教はそんなふうに、この世の中のことを明るくとらえています。

「たとえ年をとり、周りの環境が変わったとしても、不安になったり疑心暗鬼になったりする必要はない。ただシンプルに『自分にはいいところがあるのだ』と信じて、あるがままに任せてしまえば、人は幸運になれる」と教えています。

でも、そうやって物事をすべてプラスに受け止める、スーパーポジティブな状態になることはできるでしょうか?

私は、無理でした(笑)。どんなに明るく考えたって、人は裏切ることがあるし、ガッカリさせられることもあるからです。

だから、私の場合は、せめて「6対4」で考えようと努力しています。

確かに嫌なことは起こるけれど、それは4割のこと。実際に起こることの6割方は、「いいこと」なのではないでしょうか? 人には確かに悪意もあるけれど、それは4割のことで、6割は善意にあふれているのでは?

そんなふうに考えると、物事の「明るい面」が見えてくるのです。

とり立てていいということはなくても、「おはよう」と声をかければ、「おはよう」と返ってくる、そんなごく普通の人間関係を築いているだけであっても、それは間違いなく「幸せなこと」なのです。

そういうこともカウントしていけば、6割くらいは簡単に埋まるでしょう。私たちは本当に、普段の「明るい状態」に雲がかかっているだけなのですね。