そうなれば、連合艦隊は、米太平洋艦隊の邀撃と南方侵攻(それによって、イギリス東洋艦隊やオランダ、オーストラリアの艦船、フィリピンの米軍部隊との対決を余儀なくされる)の二重の任務を課せられることになる。そのような二正面作戦を実行すれば、米太平洋艦隊邀撃のために兵力を西太平洋に集結させる必要から南方侵攻が中断される、もしくは南方作戦に兵力を割かれるために漸減邀撃策が失敗するといった事態になりかねない。

山本五十六は伝統的な漸減邀撃作戦を放棄し、破天荒な一手に頼らざるを得なくなった。開戦劈頭へきとう、米太平洋艦隊の根拠地を急襲し、大打撃を与えるのだ。

米艦隊を無力化しておかなければ、南方作戦はやれない

山本は、すでに昭和十五年三月の時点で、真珠湾攻撃の可能性を模索していたのではないかと推測される。そのころ、空母の航空隊が雷撃訓練で優れた技倆ぎりょうを示すのを見ていた山本が「飛行機でハワイを叩けないものか」とつぶやくのをすぐそばで聞いたと、当時の連合艦隊参謀長福留繁ふくとめしげる少将が証言しているのである。

山本五十六・連合艦隊司令長官
山本五十六・連合艦隊司令長官(出典=国立国会図書館「近代日本人の肖像」)

ただし、山本にはまだためらいがあったらしい。同年十月に福留が、翌年度の連合艦隊訓練方針にハワイ奇襲の構想を組み入れるよう進言したところ、山本は「ちょっと待て」と答えたというのだ。だが、それから約一カ月後、十一月下旬には、その山本が海軍大臣の及川古志郎おいかわこしろう大将に真珠湾攻撃の構想を口頭で伝えたのであった。

こうした山本の姿勢の変化について、日本の公刊戦史である『戦史叢書』は、十一月下旬に実施された蘭印攻略作戦図上演習の結果が影響したのだろうと推測している。先に触れたように、南方攻略が対米英蘭戦争につながるのは必至である。

したがって、アメリカのみを仮想敵とするのではなく、南方攻略と米太平洋艦隊邀撃の両方に備えなければならないが、連合艦隊の戦力にかんがみれば、それらを同時に遂行するのは不可能である。

どうしても、南方占領が完了するまで、米太平洋艦隊の進攻を止めておかねばならない。かかる図上演習の結論から、山本も真珠湾攻撃によって米艦隊を無力化しておかなければ、南方作戦はやれないと判断したというのだ(防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』)。

現実味を増すハワイ作戦

もっともな推論であると思われるけれども、筆者は、おそらく昭和十五年十一月のイギリス軍によるタラント空襲の成功も影響していると考えている。この作戦で、空母から発信した英攻撃隊は、イタリアのタラント軍港を襲撃、戦艦二隻を着底させ、同一隻を大破させるという戦果を上げたのである。真珠湾攻撃をもくろむ者には、またとない模範例であったろう(大木毅『「太平洋の巨鷲」山本五十六』)。