航空戦力に着目したが…
しかし、その一方で、日本海軍の実戦部隊を指揮する責任を負う山本は、不本意ながらも対米戦争に突入した場合の対策を考えないわけにはいかない。たとえば、日独伊三国軍事同盟成立直後には、戦闘機・中攻(雷撃・爆撃の両方が可能で、陸上基地より運用される双発機)それぞれ一千機を用意するよう、海軍中央に申し入れたという。
戦闘機と中攻、合わせて二千機を調達するなど、当時の日本の国力からすれば不可能に近いと、おそらく山本も承知していたことであろう。だが、無理に無理を重ねてでも、それだけの航空戦力を整備すれば、万一対米戦に突入したとしても、やりようがある。
加えて、アメリカはまだ平時体制で、保有兵力や生産力もかぎられているから、日本がその規模の航空部隊を揃えれば抑止効果を得られ、アメリカの参戦を封じる可能性があると考えたのであろうか。けれども、山本の期待は現実によって裏切られた。昭和十六年十月、南部仏印進駐決定後の情勢の説明を受けるため、東京の海軍首脳部を訪ねた山本は、航空軍戦備はほとんど進んでいないと告げられたのである。
かくて、山本は希望をかなえられぬまま、若干の新鋭艦艇の就役や航空部隊の増強はあるにせよ、ほぼ現有兵力のままで対米戦争、さらには対米英戦争を実行するという事態を想定せざるを得なくなった。
その場合、日本海軍が練り上げてきた「漸減邀撃」作戦――潜水艦や航空機によって、太平洋を西進してくる米艦隊をしだいに減衰させていき、敵味方の兵力が互角になった時点で、日本本土近海で艦隊決戦を行ない、敵を撃滅するとの策は有効だろうか。
破天荒な一手に頼らざるを得なくなった
山本の答えは否であった。漸減邀撃作戦に成功の見込みがないことは、高級指揮官養成機関であると同時に戦略・作戦・戦術を研究するシンクタンクの機能を持つ海軍大学校で、長年繰り返し実行されてきた図上演習の結果をみれば明白だったのだ。山本は、昭和十六年一月七日付の文書「戦備訓練作戦方針等の件覚」で、こう述べている。
「しかして屡次〔しばしば〕図〔上〕演〔習〕等の示す結果を観るに、帝国海軍はいまだ一回の大勝を得たることなく、このまま推移すれば恐らくじり貧に陥るにあらずやと懸念せらるる情勢に於て演習中止となるを恒例とせり」(大分県立先哲史料館編『大分県先哲叢書 堀悌吉資料集』第一巻)。
さらに、戦略的環境の変化は、漸減邀撃作戦をますます困難にしていた。この戦略はアメリカ一国だけと戦うことを前提としていたのだが、対米開戦と南方資源地帯への侵攻に踏み切れば、イギリスやオランダ(現在のインドネシアに相当する地域、「蘭印」こと「オランダ領東インド」を植民地としていた)との戦争は避けられない。