※本稿は、渡辺清『戦艦武蔵の最期』(角川新書)の一部を再編集したものです。
武蔵の沈没は寸前に迫っていた
武蔵は甲板にうごめいている乗員の絶望と恐怖を乗せたまま、左側へじわじわと傾いていく。海はそぎたった白い牙をむいて、いつでも呑みこんでやろうと、舷側をくわえこむようにして嚙んでいる。艦べりはもう海面すれすれだ。もはやいかなる処置も、この傾斜を押しとどめることはできないだろう。沈没は寸前に迫っているのだ。
おれはまわりの騒ぎに巻きこまれながら、おぶってきた村尾を急いで三番主砲のわきにおろした。だが、ここまで連れだしてきて見捨てるわけにはいかない。何か手につかまるものをあてがって海に飛びこませてやろう。火にあぶられるように、甲板の上でじりじりと死の瞬間を待っているよりそのほうが楽だろうし、あるいはひょっとして助かるかも知れない。
おれはそう思って、甲板におろしたあともおれのズボンの裾にしがみついている村尾の耳に口をあてて叫んだ。
「ちょっとここで待ってろ、いまなにか探してくるから、いいか、ここを動くな」
だが、村尾はそれでおれに見離されたと思ったらしく、「いかないで、ねえ、いかないで……」と、はげしく顔をふってわめいた。
「ばか、いくもんか、すぐ戻ってくるから……」
甲板をゆるがす轟音が聞こえ、血しぶきが飛んだ
おれはいって、急いで村尾の手をもぎ離した。後部の短艇庫にいけば、壊れたランチかカッターの板切れか何かあるだろうと考えたのだ。村尾の叫び声をうしろに聞きながら、おれは後部にむかって駈け出したが、五、六歩いって、鉄甲板の波よけをまたいだ時だった。
突然、甲板をゆるがすような物凄い音が背後に聞こえた。同時に耳もとをサッと風がかすめた。右舷に移動してあった防舷物が傾斜のあおりをくって転げだしたのだ。その音といっしょに悲鳴があがった。血しぶきが飛んだ。何人かがそれに押し潰されたらしい。
おれは腰をかがめて思わず振りむいたが、見ると、いまのいまそこにおろしたはずの村尾の姿がどこにも見えない。
「村尾ー、村尾、村尾ーッ」
おれは大声で村尾の名を連呼したが、返事がない。
暗くてあわてていたせいもあって、おれもまさかあの防舷物がロープもかけずにおいてあるとは気がつかなかったが、重さ四十貫もある嵩だかの防舷物だ。村尾も、おそらくその下敷きになって海に巻かれてしまったのかも知れない。だが、それ以上、彼の行方をさがすだけの余裕はおれにはなかった。